韓国併合で日本がしたこと(後編)

崇礼門 1904年日本統治前

崇礼門 日本統治時代、1922年以前

日本史アップデート:韓国併合で日本がしたこと(前編)

韓国併合において日本は何をしたのか?
前編に引き続き、後編では実際の韓国併合で日本がやったことやらなかったことについて、見ていくことにします。

戦後の自虐史観から脱却しないとわからない関係性についても考えてみます。

まずは、高校教科書の記述から。

■日露戦争後の国際関係

日露戦争後の日本は、戦勝で得た大陸進出拠点の確保につとめた。まず1905(明治38)年、アメリカと非公式に桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定(第2次)して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。これを背景として日本は、同年中に第二次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、漢城に韓国の外交を統轄する統監府をおいて伊藤博文が初代の統監となった。

これに対し韓国皇帝高宗は、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送って抗議したが、列国に無視された(ハーグ密使事件)。日本は、この事件をきっかけに韓国皇帝高宗を退位させ、ついで第3次日韓協約を結んで韓国の内政権をもその手におさめ、さらに韓国軍を解散させた。これまでも植民地化に抵抗して散発的におこっていた義兵運動は、解散させられた韓国軍の元兵士たちの参加を得て本格化した。日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに前統監の伊藤博文が、ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に暗殺される事件がおこった。日本政府は憲兵隊を常駐させるなどの準備のうえに立って、1910(明治43)年に韓国併合条約を強要して韓国を植民地化し(韓国併合)、漢城を京城と改称してそこに統治機関としての朝鮮総督府を設置して、陸相兼統監の寺内正毅を初代総督に任命した。朝鮮総督は当初現役軍人に限られ、警察の要職は日本の憲兵が兼任した。

詳説日本史B 改訂版 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済

ハルビン駅頭で伊藤博文が安重根に暗殺され、「韓国併合条約を強要して韓国を植民地化し(韓国併合)」とあります。
韓国を併合したことが日本のために得策だったのかは、意見の分かれるところであり、結論は出ないでしょう。
結果的に現代の日韓関係を考えると、併合ではなく距離を置いたほうがよかったのではないか、と思えるのが現実です。
しかし、日露戦争において韓国問題が原因だったことは事実であり、当時としては韓国の保護が日本には必要だったことは間違いないと考えられます。
それに、教科書に記載されている「併合して植民地化した」というのは、恣意的な表現にも思えます。
海外では隣国を併合するということは例があり、イギリスのアイルランド、ドイツのオーストリア、ハワイのアメリカ併合などがあります。
これらは植民地化されたとはいいません、併合という扱いです。
日本の韓国併合も隣国の併合であり、植民地化といえるかどうか。

明治四三年(1910年)8月22日、韓国併合条約が漢城(現ソウル)において、韓国統監・寺内正毅と内閣総理大臣・李完用により調印され、8月29日、公布され、日韓併合がなされました。

そして、日本は朝鮮総督府を設置し、初代総督に寺内正毅が就任しました。

三・一運動

韓国併合後、大正八年(1919年)、三一運動が起きます。
三・一独立運動、三・一事件とも呼ばれる朝鮮の内乱です。
そして、20世紀初頭の世界情勢は、中国では辛亥革命とよばれる”いつもの”内乱が起き、1912年から1919年にかけて、第一次世界大戦、ロシア革命などが起きています。
そんな、世界が混乱状態にある中、起きたのが三・一運動です。
韓国側発表の死者数は7509名、朝鮮総督府の死者数は553名、大きな暴動であったことは間違いありません。
そして、この事件をきっかけに日本政府は、力で制圧するという強引な統治方法が改められ、穏便な統治方法へと変わっていきました。
それに、日本による統治システムも未成熟であり、どうしても武力に頼らざるを得なかったという事情もありました。

朝鮮統治政策

韓国併合で日本が奪ったとされるのが「七奪」だと言われています。
本当に日本は韓国から奪ったのでしょうか。

  • 主権
  • 国王
  • 人命
  • 国語
  • 創氏改名
  • 土地
  • 資源

主権については、明治三十八年(1905年)、第二次日韓協約で外交権を掌握し、統監府を設置した時点で主権は日本に移っていたと考えられます。
そういう意味では、独立国家としての体制は、日本に奪われたといっていいでしょう。
しかし、李氏朝鮮は長年にわたり冊封体制で清国の属国でしたので、主権が韓国にあったとはいえず、独立国家だったとは到底考えられません。
本当に、主権が回復するのは独立国として認められた1945年以降のことです。

国王については、大韓帝国の高宗、純宗は国王ですので、奪われたわけではないです。
本来、日韓併合によって廃止されるべきものを、継続されたのですから、奪ったわけではありません。
逆に冊封体制の清から独立したという意味で、奪われたのではなく、奪還したと言ってもいいでしょう。
さらに、李王・李垠と日本の皇室・梨本宮方子との婚姻が成立することをみても、王族として認められていたことは間違いないでしょう。

人命といえば、人口増加で説明できます。
20世紀初期、併合前の韓国の人口は、1000万人程度だったと推定されていますが、韓国併合終了前には、約2500万人に達しました。
これは、食糧生産の増大と、公衆衛生の改善による死亡率の低下による結果であるといわれています。

教育(創氏改名・朝鮮語)

併合後の教育として、日本語の習得が強制され、朝鮮語や朝鮮の歴史が抹殺された、という言説があります。

これに対する事実として、読み書きのできない文盲を解消するために、日本内地に準じた学校教育制度が整備されました。
小学校は、併合前には100校程度しかありませんでしたが、昭和十八年(1943年)には4271校にまで増加しました。

また、朝鮮語と漢文は必修科目でした。
さらに、現地日本の役人に対し、朝鮮語奨励政策が行われていました。
等級別に試験が行われ、合格するとそれに相当する手当が支払われています。

「強制」と「教育」は、一種の同義性を持つ用語であり、教育には強制して意図的にこうなって欲しいという意味を含んでいます。
例えば、義務教育は、児童に対する一種の知識・技能の強制によるものといえます。
また、企業教育も、企業による従業員への強制伝達でもあります。
つまり、強制として捉えるか、教育として捉えるか、主観的な表現の違いだけです。

私に言わせれば、朝鮮の歴史が抹殺されたのは、捏造された歴史にしか目を向けず、それにしか興味のない現代韓国人によりなされたものだと思います。

「創氏改名」は、昭和十四年(1939年)の朝鮮民事令改正・制令十九号(創氏)および、二十号(改名)において、新たに「氏」を創設し、「名」を改めることを許可した政策のことです。
元々、韓国には家族の呼称「氏」は存在せず、男系血族の一門「姓」がありました。
韓国の「姓」は、金・李・朴・張など、250種類ほどしかなく、日本の「氏」が十万を超えるのに比べ極端に少なく、同姓同名が頻発しました。

そこで、朝鮮伝統の「姓」とは別に、新たに家の呼称である「氏」を創設したのが「創氏」でした。

昭和十五年(1940年)2月~8月の期間を設定し、役場に氏設定届を提出する「設定創氏」が定められました。
これには、新たに日本風の氏にて届け出る者がほとんどでした。
届け出を出さないからといって懲罰があったということもなく、出さないものは、従来の「姓」がそのまま「氏」となりました。(法定創氏)

一方、「改名」の方は、強制ではなく、任意の申請であって、許可件数は約188万人、人口の1割でした。
あくまでも、任意であって強制ではないといえますが、半強制に近い状況であったという言説も一理あります。
これは善悪の議論であって正しいか正しくないのかは不毛の議論です。

韓国では13世紀まで朝鮮語を表記する固有の文字がなく、両藩などの知識階級は漢文を使用していました。
そして、ハングルは文字数が少なく発音そのままの表音文字なので、ふりがななど副次的な文字として使用されてきました。
その後、甲午改革においてハングルを正文とすると制定され、小学校でもハングルが教えられ、新聞などに広がりました。
明治四十五年(1912年)、朝鮮総督府は初めて韓国語の正書法である普通学校諺文綴字法を制定し、漢字ハングル交じり文が普及しました。

日本に朝鮮語を奪われたのではなく、日本が朝鮮語を普及させたのです。

土地・資源の収奪

日本の統治で大きく非難されるのが土地、資源の収奪です。
土地調査事業によって大量の農民が土地を奪われた、とか、多くの人々を、中国、ロシア、日本などに移住させるという苦痛を負わせた、という言説です。

朝鮮総督府は明治四十三年(1910年)から大正八年(1919年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定しました。

日本人が朝鮮半島に進出して目にしたのが、 灌漑設備の不備による広大な荒れ地でした。

『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人 重松髜修物語』田中秀雄著には、三・一運動で右足に被弾し、跛行となりながら私財をなげうち「卵から牛へ」の農村改良に奮闘し農民から顕彰された熱誠の人、朝鮮金融組合理事・重松髜修の話が掲載されています。
私財を投じて平安南道の寒村に養鶏を根付かせ、卵の代金を貯金し耕牛を買うシステムを普及させました。
自ら養鶏を実践することで困窮農家を養鶏へと誘い、自立農家が増加していきました。

大正十四年(1925年)、久保田豊らが鴨緑江の上流・赴戦江や長津江を堰き止める計画を策定し、日本窒素の全額出資で赴戦江ダムと赴戦江発電所が建設されました。

日露戦争中に中国東北部への補給線として計画された鴨緑江断橋計画は、統監府鉄道管理局に受け継がれ、明治四十四年(1911年)に完成しました。
鴨緑江断橋は、欧亜連絡運輸の一部として、関釜連絡船(下関→釜山)、京釜線(釜山→京城)、京義線(京城→新義州)を経て鴨緑江を渡り、安奉線(安東→奉天)、南満州鉄道(長春→旅順)、東清鉄道からシベリア鉄道を通れば日本からヨーロッパまで繋がるという壮大なものでした。


このように日本が韓国併合でやったことやらなかったが明らかになり、欧米列強がアジア等において属国を植民地化したのとはくらべるまでもないような手厚い支援を行ったことがわかります。
残念ながら、日本の敗戦によってこれらは露と消えてしまいましたが、なんらかの日本への見返りとして、良い面が今後出てくるような気がします。
悪い時期は距離を置いて関係を継続しながら、日本人は日本人として良いことを為していけば良いのではないでしょうか。

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