道鏡と孝謙天皇(称徳天皇)
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道鏡の出自
道鏡の生年も父母の名前も不明です。
700年前後の生まれではないかと推定されています。
道鏡は河内国、現在の大阪府八尾市で生まれました。
古代豪族である物部氏との縁もあるという説があります。
先代旧事本紀によれば、「物部守屋大連公、弓削大連」という記述があり、この河内の地域は古代の豪族物部氏の本拠地であったとされています。
物部氏は弓や矢を製造する部民である弓削部を抱えていました。
物部系なので、藤原氏によって氏素性が隠された可能性があります。
道鏡は、葛城山に籠もって、禅を修め、超常的な力を身につけました。
後の修験道や山伏の修行も同様で、山中での断食や滝の下での荒行などによって、通常の人にはない法力を得ることが禅の修行の一環でした。
鎌倉時代に入ってきた禅宗とは異なり、初期の禅は密教的な要素が強く、厳しい修行を積んだ禅師たちは病気を癒やしたり、干ばつに雨を降らせる超自然の力を持つと信じられていました。
特に病気を癒やす能力を持つ僧侶は「看病禅師」と呼ばれていました。
母親の宮子が鬱病だったことが影響しているのか、聖武天皇もかなり異常な部分がありました。
政治よりも仏法を重んじ、しばしば都を遷都し、民の苦しみなどにはほとんど関心を示さない傾向がありました。
聖武天皇は病気になると、薬よりまず看病禅師を招いて、病魔退散を祈祷してもらっていたそうです。
道鏡は、宮廷内の内道場へ迎えられて、待望の看病禅師となったのです
道鏡事件の年表
道鏡事件の年表を掲載します。
孝謙天皇
それでは、ここで当事者のもう一人、孝謙天皇について見ていきましょう。
孝謙天皇は、718年に生まれ、幼名を阿倍内親王といいます。
父親は聖武天皇、母親は光明皇后、祖母は県犬養橘三千代、祖父は藤原不比等です。
道鏡とは18歳位の年の差があったとみられます。
6人目の女性天皇で、天武系最後の天皇でした。
738年には女性初の皇太子になっています。
歴史上唯一の女性皇太子であり、「中継ぎ」ではなかったとされます。
聖武天皇
首皇子(後の聖武天皇)の母は、藤原宮子で、藤原不比等の娘です。
そこで首皇子を守ることは、おのれの外孫を守り、自己の地位を不動にすることであるというので不比等は、懸命に策を練ります。
その首皇子が724年、聖武天皇として即位します。
孝謙天皇の父親でもあります。
16歳で首皇子と結婚した光明子は、18歳で阿倍内親王(孝謙天皇)を生んでいます。
そして27歳で待望の皇子、基王を儲けました。
ところが、基王は1歳で亡くなってしまいました。
基王が亡くなるやいなや、729年、長屋王の変がおこります。
長屋王と藤原四家が対立し、長屋王と奥さんの吉備内親王が自害し、その子どもたちも自害します。
しかし、藤原不比等の娘とその子どもたちは許されています。
ここにも藤原氏の策略が見て取れます。
長屋王の変が終わると、光明子が立后されています。
光明皇后(光明子)
16歳で首皇子と結婚した光明子は、18歳で阿倍内親王(孝謙天皇)を生んでいます。
そして27歳で待望の皇子、基王を儲けました。
光明皇后の幼名は安宿媛です。
謎を解く鍵は安宿
藤原不比等、持統天皇、そして光明皇后の養育者は、河内国在住の百済系氏族・田辺史です。
史料からそう考えられています。
特に、光明皇后は、幼名が安宿媛です。
その光明皇后を生んだ県犬養橘三千代も安宿出身だという説があります。
このように、田辺史から生まれた皇后ともいえるのです。
この田辺史に思想を植え付けられた藤原一族が、藤の木のごとく根を張り、天皇を牛耳り、一族の反映を謳歌していくことになるその礎となりました。
藤原仲麻呂
藤原仲麻呂、恵美押勝としても有名な人物です。
父親に藤原武智麻呂の次男で、藤原南家の優秀なエリートです。
706年生まれ、孝謙天皇の12歳年上です。
聖武上皇が56歳で崩御すると、758年、孝謙天皇は皇位を大炊王(おおいおう)に譲りました。
淳仁天皇です。
大炊王は仲麻呂の長男である藤原真従の死後、彼の妻であった粟田諸姉と再婚しており、実質的には仲麻呂の身内でした。
彼は仲麻呂の影響下にあり、ある種の操り人形と見なされる存在だったのです。
仲麻呂は自身の権勢を誇示するために、官職の名称を変更し、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保とし、全てを唐風に変え、自らも大保として就任しました。
さらに、政敵、橘諸兄の子・奈良麻呂を蹴落として権力を掌握し、恵美押勝に改名します。
仲麻呂の拠り所であり、聖武天皇に仕えた勢力の支えも、光明皇后でした。
しかし、拠り所の光明皇后は760年に58歳で崩御します。
政権のタガが外れました。
コントロールを失った政権は、混乱し、叛乱を呼び起こします。
保良宮での二人の出会い
752年大仏開眼の年に、道鏡は内道場に入ったといわれています。
内道場とは、宮中に設けられた仏の礼拝所であり修行の場です。
そこには「看病禅師」が奉仕を待っており、聖武天皇の頃は、看病禅師は100名を超えていたと伝えられています。
法師の言葉は、人の生死や気力を自在に司ると信じられており、その影響力は非常に強力でした。
そのため、天皇、特に女帝や皇后などは、他人の言葉に耳を傾けないことが逆に彼らの影響を受ける結果になりました。
この頃、孝謙上皇は、近江の保良に離宮をつくり始めていました。
近江の地は祖先・鎌足より続く藤原氏の所領として仲麻呂が治めています。
はじめは離宮程度の計画でしたが、2年後には保良宮への遷都まで考えるようになっていました。
女帝が病気になった時、たまたま道鏡が看病禅師として看病することになりそれ以来、その寵愛を受けることとなります。
女帝の年齢は44歳、道鏡は60歳位になっていました。
道鏡が女帝の寵愛を受けるのと前後して、仲麻呂との関係が悪化していました。
そして、事件が起きます。
保良宮での道鏡寵愛の噂が、宮中から一般民衆にまで拡がり、宮中で取り沙汰されるようになります。
そこで、仲麻呂は、淳仁天皇を使い女帝に道鏡とのことを諫言します。
そして女帝は、この讒言に烈火の如く怒り、五位以上の廷臣を集めて詔を下しました。
「淳仁天皇は、禁じられた言葉を口にした。朕はそのような非難を受けるつもりはないが、現在、道鏡と別の法華寺にいる以上、もはや不当な攻撃を受ける余地はないだろう。朕は出家することになるが、今後は国家の重要事は全て朕が決定する。天皇は神事と些細なことにのみ関与すれば十分である」
男女の関係だけは、歴史には残らないため、想像するしかありません。
私は、年齢のことや病気で気力が衰退していたことを考えると、肉体関係は無かったと考えています。
それをなんとなくあったかのごとく記録したのは、藤原氏の意向によると思います。
藤原仲麻呂の乱
763年5月に、仲麻呂と緊密な関係にあった鑑真がこの世を去りました。
代わりに権勢の波に乗ったのは、道鏡でした。
その後、天変地異が相次ぎ、不作、旱天、地震、長雨、そして大飢饉が襲いました。
決定的な対立となったのは、仲麻呂の讒言からでした。
「道鏡は蘇我氏に滅ぼされた物部氏の子孫、道鏡は物部氏を再興しようとしています」
「重大な事態になる前に即刻遠ざけるようご忠告申し上げまする」
密告をうけた孝謙上皇は、山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収します。
これを知った押勝は山村王の帰路を襲撃させて、駅鈴を奪回。
ところが山村王を防衛していた坂上苅田麻呂が戦って、仲麻呂の三男を討ちました。
その晩、仲麻呂は妻子と部下を連れ、屋敷を出て宇治から近江へ急ぎます。
上皇は、道鏡を参謀として任命し、渡来人の系統である漢氏や秦氏の兵士、そして仲麻呂に反対する藤原良継らを含む人々に呼びかけ、唐で軍略を学んできた吉備真備を招いて作戦を立てさせます。
仲麻呂一家は、琵琶湖の西岸に沿って北へ進みますが、官軍はすでに越前に先んじており、進路を遮られた仲麻呂は妻子とともに湖上で斬られました。
翌日、すぐに論功行賞が行われ、仲麻呂の唐名を従来の官名に戻し、藤原豊成が右大臣の地位に復帰。
また、前年に一躍少僧都となったばかりの道鏡が更なる昇進を果たし、大臣禅師に任命されました。
上皇は重祚して、称徳天皇となりました。
和気清麻呂と宇佐八幡宮神託事件
769年5月、大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂、道鏡の弟たちが宇佐八幡宮の神託を奏上。
「道鏡を皇位に就かせれば天下は平和になるだろう」
この神託により、宇佐八幡から和気広虫の派遣を要請され、弟の和気清麻呂を派遣することになりました。
道鏡は出発に際し清麻呂に、うまくやってくれれば高い官職にしてやろうといって懐柔を図ります。
宇佐八幡神社より立ち帰った清麻呂は、女帝に報告します。
「わが国は開闢この方、君臣の別が定まっています。臣をもって君となすことはいまだかつて例がありません。天つ日嗣は必ず皇統より選びなさい。無道の人は早く掃除するべし。との神託にございます」
これを聞いた道鏡は大いに怒って、清麻呂を因幡員外介に左遷した後、さらに彼を「別部穢麻呂」と改名させ、大隅国へ配流しました。
同様に、彼の姉である広虫も「別部広虫売」と改名させられ、備後国に配流しました。
清麻呂の一言で、道鏡の野望はすべて潰え去ったのです。
女帝は、道鏡の悲しみを和らげようと、弓削宮へ行幸し、盛大な歌会を開いて河内の野で歌舞を楽しもうとしました。
しかし、その半年後に女帝は崩御しました。
53歳でした。
失った天皇の強力な支持を道鏡は感じ、その脆弱さが露呈します。
藤原一族はただちに、道鏡を引きずり下ろし、下野国へ追放しました。
そして、女帝の異母妹を妻としている白壁王を即位させます。
光仁天皇です。
弓削一族の栄光もはかなくも短いものに終わりました。
神護景雲4年(770年)8月、道鏡は、下野国(現在の栃木県)にある下野薬師寺別当への任命を受け、1年9か月を下野国で過ごし、亡くなりました。
和気清麻呂は大隅国から呼び戻され復帰しています。
女帝五人七代の時代
この国体の根幹を揺るがす大事件に懲りたのか、その後江戸時代まで、女性天皇は出てきませんでした。
五人七代に及ぶ女性天皇の時代が、こうして幕を閉じました。
そして、藤原氏が天皇をも自由自在に操る平安時代が到来するのでした。
道鏡と女帝の事件は、桓武天皇の命で797年に完成した『続日本紀』を中心に記されたものであり、宇佐八幡宮神託事件は脚色されていると言わています。
道鏡が悪いのか、女帝が悪いのか、取り巻き連中が悪いのか、色々な説が存在します。
道鏡が神託事件後、重罪に処されていないところを考えると、天皇になろうとした事件は冤罪か、あるいは続日本紀の脚色だった可能性があります。
女帝が仏教を篤く崇めるあまり、どこの馬の骨ともわからぬ一介の禅僧の言うことしか聞かず、密室政治をやりすぎたため、周囲の意見を聞かず、八方塞がりになり自滅したということかもしれません。