早良親王の怨霊と桓武天皇

桓武天皇

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桓武天皇 Wikipedia

山部皇子(後の桓武天皇)は、光仁天皇と百済系渡来人氏族・和乙継の娘・高野新笠との間に生まれました。

高野新笠は、天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の側室となり、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良親王を生みました。

道鏡による狂乱の時代が称徳天皇の崩御により終わり、天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され白壁王は、宝亀元年(770年)、光仁天皇として即位しました。
皇后には井上内親王、皇太子にはその子・他戸親王が立ちました。

その裏で暗躍したのが、藤原百川、永手、良継ら藤原式家の一族でした。

藤原一族が目をつけたのは、老天皇・光仁ではなく山部皇子でした。

氷上川継事件

772年、井上内親王が天皇を呪詛した疑いがもたれ、皇后の地位から落とされます。
さらに、嫌疑は他戸皇太子におよび、二人は大和国宇智郡に幽閉され、三年後に二人共、亡くなります。
自然死ではなく藤原百川らが仕組んだ冤罪であろうと考えられます。
その代わりに翌年の宝亀4年(773年)、山部親王が37歳で立太子しました。

老天皇・光仁が病気により譲位し、山部親王が即位します。桓武天皇です。

これで天皇の御代が安泰に進むと思われましたが、事件が起きます。

氷上川継事件です。

782年、大和乙人というものが宮中に乱入し捕えられ尋問で氷上川継の謀反を白状します。
氷上川継は、捕えられ伊豆の流罪となりました。
川継は天武系の家系である藤原京家・浜成の娘を妻に持つことから、謀反に関わりやすい気風が流れていたことは疑いないでしょう。

この事件は大きく波紋を広げます。

参議・藤原浜成、左大弁・大伴家持らが刑罰を受けました。
さらに、左大臣・藤原魚名(北家)が解任され、左遷されました。
これにより、藤原京家は没落していきました。

桓武天皇の夫人となったのは、藤原良継の娘・藤原乙牟漏で、皇后に立てられました。
藤原乙牟漏の生んだ子が安殿親王(後の平城天皇)、賀美能親王(嵯峨天皇)です。
その後、藤原百川の娘・旅子を夫人にし、大伴親王(後の淳和天皇)をもうけました。

早良親王

781年、桓武天皇は即位すると高野新笠を皇太夫人とし、早良親王を皇太子に立てました。
天皇の弟が皇太子になるのは、第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていましたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位するのを避けるため、早良が立てられたとみられます。

早良親王は、光仁天皇と高野新笠の間に生まれた桓武天皇の弟です。
母方が蛮族系の下級貴族であったため立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して親王禅師と呼ばれていました。

延暦4年(785年)9月23日の夜、長岡京造営の指揮に当たっていた藤原種継が、何者かに矢によって射ち貫かれ、翌日息を引き取ったのです。
その時、桓武天皇は奈良の旧京に行幸したり、狩猟をしたりして長岡京に戻っていませんでした。
代役を早良親王、右大臣・種継らが務めていました。

朝廷はただちに犯人の捜査に乗り出し、数名のものを容疑者として捕えました。
取調べの末、大伴継人が主犯とされ、佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となりました。
事件直前に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名されました。

この事件の余波はさらに重大な様相を呈して来ます。

家持が大伴・佐伯両氏を伴い種継を排除し、早良親王の了解を以って実行したと、首謀者らが白状していたのです。
嫌疑はついに、早良親王におよび、9月28日、早良親王は身柄を乙訓寺に幽閉されました。
早良親王は、無実を訴えるため絶食し10余日が過ぎ、淡路国に配流される途中、河内国の淀川にかかる高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で息を引き取りました。
それでも遺骸は淡路に送られ、そこで葬られました。

早良親王が種継事件に関与していたかどうかは不明です。

・早良親王の抗議の絶食による死とする説
・桓武天皇が飲食物を意図的に与えず餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説

ことの成り行きを見ると、早良親王は冤罪であったと考えます。
まず、乙訓寺に幽閉された早良親王が、みずから飲食を断って死に至ったということであれば、死を以って無実を証明しようとしたことになります。
さらに、早良親王の廃太子を桓武や側近が望んでいたということです。
その年の11月に桓武は、弱冠12歳の安殿親王を皇太子に立てています。

種継事件について、大伴家持が首謀者なのか、あるいは違うのか、これは全くわかりません。
家持はその直前に亡くなっていることから、大伴継人らの犯行で家持を首謀者に仕立て上げようと白状したことなのかもしれません。

長岡京の造営

延暦3年(784年)、桓武天皇は山背国乙訓郡長岡村(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)の視察を命じたことから始まります。
長岡京遷都の準備に入ります。

平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。
長岡京の立地は、宇治川、桂川、木津川など、3本の川が淀川となる合流点がありました。
6月には、藤原種継が造長岡宮使に任命され、工事が始まりました。

延暦4年(785年)正月には、宮殿で新年の儀式を行い、建築開始からわずか半年で宮殿が完成していました。
当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的でしたが、平城京から移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築しました。

平安京への遷都

早良親王亡き後、延暦7年(788年)、夫人の旅子、翌年、皇太夫人・高野新笠、翌々年、乙牟漏が相次いで亡くなります。
これで、式家が没落、南家が勢力を伸ばします。
さらに、延暦9年(790年)、日照りによる飢饉・豌豆瘡(痘瘡)という疫病が大流行します。
そして、伊勢神宮正殿が放火され、皇太子・安殿が発病してなかなか回復しないなど様々な変事が起こりました。
朝廷で陰陽師が占うと、早良親王の怨霊が取り憑いていると出ました。

桓武天皇は自身の出自に負い目を感じていたと考えられます。
天智天皇の系統という正統性を持つものの、母親・高野新笠が百済系渡来人の血をひいていたからです。
また、親戚が下級官人であったこともあり、28歳で従五位下に叙せられる遅さでした。
そして、井上内親王、他戸皇太子の冤罪事件が怨霊となって桓武の心に暗い影をおとしました。
そんな中、早良親王の冤罪事件による祟りが発生するにいたり、怨霊の恐怖は桓武を苦しめていきました。

宮中に怨霊がはびこり、桓武は公に亡霊への配慮が必要となってきたのでした。

長岡京は早良親王が亡くなった乙訓寺もある土地です。
その怨霊から逃れるためには、長岡京を離れざるを得ないと考えても不思議ではありません。
恐怖から逃れるためには、京を移すしか策はないと考えました。

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桓武に遷都を薦めたのは、道鏡・称徳天皇の宇佐八幡宮神託事件で有名な和気清麻呂でした。
和気清麻呂は、造宮大夫に任ぜられ、延暦15年(796年)には従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇格しています。
延暦12年(793年)1月、桓武天皇は再遷都を宣言します。
遷都の地は葛野郡宇太村でした。
延暦13年(794年)12月、ついに桓武天皇は怨霊がはびこる長岡京を離れ、平安京に遷都したのでした。
そしてその名前は、「平らかで安らかな都になるように」という意味を込め、平安京と名付けられました。

上御霊神社・下御霊神社

上御霊神社・下御霊神社は、京都御所を挟んで鎮座する平安京を守護する社です。
■上御霊神社(かみごりょう)
・京都市上京区上御霊竪町に鎮座する府社
・794年5月、早良親王の御霊をこの地に祀ったのが始まり
・「御霊」は元々「おんりょう」と読み「怨霊」のこと

上御霊神社ご祭神 (八所御霊)
・崇道天皇(早良親王)
・井上大皇后
・他戸親王
・藤原大夫人(藤原吉子)
・橘大夫(橘逸勢)
・文大夫(文室宮田麻呂)
・火雷神
・吉備大臣(吉備真備)

■下御霊神社(しもごりょう)
・京都市中京区下御霊前町に鎮座する府社
・上御霊神社と対応する社名

下御霊神社ご祭神 (八所御霊)
・吉備聖霊
・崇道天皇(早良親王)
・伊予親王
・藤原大夫人(藤原吉子)
・藤大夫(藤原広嗣)
・藤大夫(橘逸勢)
・文大夫(文屋宮田麻呂)
・火雷天神

このように、早良親王の怨霊を鎮めるために祀られた神社であることは確かです。
当時、怨霊と認識していたということから、冤罪の可能性が高いと言えます。

平安京に遷都してからも厄災が続きます。
その最たるものは富士山の大噴火です。
800年3月、富士山が大噴火したのです。
何日も地震が続き、灰を含んだ黒い雨が降ったといいます。
桓武天皇は、早良親王を崇道天皇にするということまで行っています。
よほど早良親王の祟りを恐れたのでしょう。
そして薨去するまで怨霊に苦しめられるのでした。

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