藤原摂関政治と狂気の天皇:冷泉天皇・花山天皇

狂気の天皇・冷泉天皇・花山天皇
藤原摂関政治と狂気の天皇 冷泉天皇と花山天皇

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冷泉天皇 狂気説

冷泉天皇というと通説では狂気の天皇として描かれることが多いようです。
どのような奇行があったのかと言うと、

  • 一日中鞠を蹴って足を負傷しても止めなかった
  • 子供の頃、父親であった村上天皇からの手紙の返事に、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた
  • 清涼殿の近くにある見張り小屋の上に座り込んだ
  • 病気のため寝込んでいたとき、大声で歌を歌った

冷泉天皇は、天暦四年(950年)、村上天皇と藤原安子の間に生まれました。
生後2か月で皇太子に立ちました。
康保四年(967年)村上天皇が崩御され、冷泉天皇が18歳で即位します。

そして、安和二年(969年)、安和の変が勃発します。
左馬助 源満仲と前武蔵介 藤原善時の二人が、中務少輔 橘繁延と左兵衛大尉 源連の謀反を密告したのです。
この知らせを受けて、右大臣師尹以下の公卿はただちに参内し、宮中の諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧侶である蓮茂や、検非違使 源満季、前相模介 藤原千晴とその子久頼などを捕らえて訊問に入りました。
さらに、関所を固める固関使も出発するなど大騒動に発展します。

結局、左大臣源高明を太宰権帥に左遷することが決定します。
まさに、菅原道真の左遷と同じことが行われたのです。
最終的には、源高明は左大臣の職を解任され、右大臣だった藤原師尹が左大臣につき、右大臣には大納言の藤原在衡が昇進しました。
密告した源満仲と藤原善時の二人は昇進し、 橘繁延が土佐に藤原千晴を隠岐に、僧侶蓮茂を佐渡に流罪となりました。
菅原道真の左遷も安和の変もどちらも藤原氏側が仕掛けた事変です。
菅原道真も源高明も冤罪です。
藤原の私利私欲のために敵は葬り去られたのです。

そして、この安和の変を最後に藤原氏の他氏排除の企みは終わりとなります。

このような背景があって冷泉天皇狂気説へと繋がります。
冷泉天皇は精神分裂病(今は統合失調症)であるとか、重い精神病を患っていたなど、諸説見られ半ば通説化しています。

しかし、上記の奇行をみても、狂気の天皇というほど重たい精神病であるとは、考えにくいのではないでしょうか。

冷泉天皇は、 天暦 四年(950年)6月に生まれ、寛弘八年(1011年)11月に崩御されています。
62歳まで生きました。
当時としては長命の天皇でした。
安和二年(969年)、円融天皇に譲位し、太上天皇となリます。19歳で上皇になり亡くなるまで続きました。

『愚管抄』には、冷泉院は物怪(もののけ)により、譲位されたとか、物怪によって病脳が頻りであった、と書かれています。
冷泉の病気は物怪が原因であるということです。
『栄花物語』『神皇正統記』などの史書をみると、物怪とか邪気という表現が多いようです。

そして、当時の時代背景を考えると藤原氏側の利害が見え隠れします。
つまり、冷泉天皇が譲位するに従い、道長が権力を掌握し、冷泉上皇が不要になってくるのです。
冷泉天皇と道長の仲も悪化していきます。
「歴史は権力者側の論理で作られる」という法則により、権力者藤原氏の都合で冷泉天皇狂気説が構築されていくことになります。
上記の奇行といっても重度の精神障害といえるほどのものではなく、道長が冷泉を狂気とみなすことで道長の正当性を浮かび上がらせる魂胆があったと推測できます。
皇位を継承するに足らない、とんでもない天皇であることを強調するために狂気説を広めたとも言えるのです。

冷泉天皇・花山天皇の狂気
藤原摂関政家と冷泉天皇


花山天皇 狂気説

藤原摂関政治において、もうひとり狂気の天皇といわれたのが花山天皇です。
花山天皇は、安和元年(968年)11月に生まれ、寛弘五年(1008年)3月に崩御されています。
41歳ですので、冷泉天皇よりは短命でした。
在位期間は、永観二年(984年)から寛和二年(986年)です。
花山天皇は、冷泉天皇と藤原懐子の間に第二皇子として生まれています。
つまり、狂気といわれた冷泉天皇の皇子であったことも影響したのでしょう。

花山天皇、どのような人物として描かれているのかと言うと、色好みと和歌、絵画、工芸など風流を好んだということです。

実は花山天皇を狂気であると書かれた説話の類は無く、代表する史書『小右記』には、別段、花山天皇を狂気とみなすような行動は描かれていません。

説話集の中ではどうかというと、例えば『栄花物語』では、
「まったくみっともないくらいにお泣きあそばす」
「院はやたらに腹立たしく不愉快な気持ちになられてただただ不機嫌になりあそばす」
『大鏡』では、
花山天皇を「内劣りの外めでた」つまり私生活は劣るが政治面では優秀である、と人々が言っていた、と書かれています。

しかし、多くの花山天皇に関する記述は、狂気というほど著しい奇行とはいえず、どちらかというと天皇の行いを悪く描いたものがほとんどです。

花山天皇狂気説を探る上で重要な人物が藤原道長と父・兼家です。

藤原道長の父親である藤原兼家にとってライバルを蹴落とす最善策は、花山天皇の退位でした。
花山天皇から懐仁親王への譲位がベストでした。
天皇の寵愛深かった藤原為光の娘で花山天皇の女御、忯子が懐妊するのですがその後亡くなり、花山天皇は深く悲しみに沈みます。
その悲しみに乗じ出家計画を建てたのが藤原兼家一家でした。
まず、道兼と僧・厳久が言葉巧みに出家を勧め、清涼殿から天皇を連れ出すことに成功します。
道兼は僧形になる前に親の兼家にこの姿を見せたいという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇はペテンにかけられたことを知ります。
天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでこの兼家一家の策略を知り、出家しました。
このように、兼家は言葉巧みに花山天皇を出家に誘導、ついに寛和二年(986年)花山天皇は退位し外孫の懐仁親王(一条天皇)が即位しました。

そして、道長の時代になります。
花山天皇と伊周との間で恋の揉め事があり、花山天皇に弓引く事件が発生します。長徳の変です。
さらに伊周が病の詮子を呪詛したという噂が立ちます。
また、法琳寺から伊周が大元帥法という秘法をおこなったという密告がありました。
これらの事件により、道長は、伊周を大宰権帥に左遷すると発表、固関使派遣が決まります。
中宮・定子は、伊周、隆家を左遷の命が出た後も二条宮でかくまい髪を切って尼となりますが、後に一条天皇の命で宮中に戻ります。
一連の騒動で藤原伊周、隆家は失脚し、藤原道長の天下がやってきたのでした。

藤原摂関政治が確立していく中で、冷泉、花山天皇の皇統は軽んじられ、円融天皇、一条天皇という道長が外戚となる皇統が重んじられていきます。
そうした時代背景の中、史書、説話集も冷泉天皇と花山天皇の人物像が創り上げられていったのです。
藤原氏にとって外戚関係を得るのに都合の悪い、冷泉天皇、花山天皇は天皇として皇統を継ぐに耐えうる器ではなかったと印象操作したということです。

まさに、勝者によって歴史は作られていくということを狂気の天皇説が顕著に示しているのではないでしょうか。

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