藤原氏の正体

藤原氏の正体
藤原氏の正体

藤原氏の正体

藤原氏の正体というか実態を明らかにするには、藤原氏の祖である鎌足を調べる必要があります。
藤原氏の祖、中臣鎌足は乙巳の変において蘇我氏を壊滅させるクーデターを行いました。
それまで身分が決して高くないものでも、暴力によってのし上がることができることを藤原氏の祖であった鎌足が自ら実践して証明したのです。
鎌足の頃は、未だ律令や法律というものがない時代ですので、クーデターという暴力で権力を掌握できました。

暴力による革命は支那大陸での易姓革命が有名です。
それは平民からの成り上がりを正当化する思想です。
その易姓革命の思想が強く現れているのが藤原氏による政権運営です。
もともと渡来系だったのか、あるいは、倭人としてその思想を輸入したのか、その出自はここでは論じませんが、身分が低いものによる暴力革命の思想が強く現れているのが藤原氏です。
その後、律令体制が成立し、法律が重視される時代へと変遷していきます。
その律令を自らの氏族に有利に働くように改修したのが、藤原不比等でした。
そして、娘を嫁がせることで天皇と縁戚を結び、天皇を裏から動かすようになっていきます。
また、自家に都合の良いように歴史を改ざんするため、都合の悪い史料は焚書にして消し去ります。
それに合わせて、持統天皇・不比等の時代に多くの氏族の系図が没収されています。
『日本書紀』は藤原不比等によって、『日本後紀』は藤原緒嗣によって、何らかの改ざんが行われているというのが通説です。

このように藤原氏の正体は謎に包まれていて、古代史を闇に導いています。

藤原氏の系図

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藤原氏の系図を下記に載せました。
藤原不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の4人に系図はつながっていきます。

■藤原南家
不比等の長男・藤原武智麻呂を祖とする家系が藤原南家です。
武智麻呂は長屋王の変を制圧し、藤原四子政権(藤原武智麻呂政権)を確立していきます。
武智麻呂は知力に優れ、大学頭として大学制度の設立に尽力しました。
系図の藤原仲麻呂が恵美押勝の乱で敗退すると、南家は衰退していきました。

■藤原北家
不比等の次男・藤原房前を祖とする家系が藤原北家です。
藤原北家はその後一番興隆することになります。
系図にあるように、藤原冬嗣が急速に台頭し北家の勢力が他家を圧倒していきます。

■藤原式家
不比等の三男・藤原宇合(馬養)を祖とする家系が藤原式家です。
宇合は長屋王の変では軍事面で活躍しました。
薬子の変(平城太上天皇の変)で 藤原仲成・薬子 が失脚し衰退していきました。

■藤原京家
藤原不比等の四男・藤原麻呂を祖とする家系が藤原京家です。
藤原京家はその後衰退していきます。

藤原氏系図
藤原氏系図(筆者作成)

長屋王の変では、長屋王と藤原四家が対立し、長屋王と吉備内親王が自害し、その子どもたちも自害します。
しかし、藤原不比等の娘とその子どもたちは許されています。
ここにも藤原氏の策略が見て取れます。
長屋王の変後、光明子が立后されています。
長屋王の変が冤罪だという証明が、藤原四兄弟が次々に疫病によって死亡し、それが長屋王の祟りだと恐れ慄くことでわかります。
正当な征伐であれば祟りで慄くということはありえません。

藤原薬子の変(平城太上天皇の変)

薬子の変(平城太上天皇の変)には大きくわけて3つの説があります。
・平城天皇首謀者説
・藤原仲成・薬子首謀説
・嵯峨天皇首謀者説
通説では藤原薬子ではなく、平城上皇が主体となって変を起こしたというのが有力になっています。

延暦26年(806年)、桓武天皇が崩御し、皇太子であった安殿親王が即位し平城天皇となります。
平城天皇は弟の神野親王(嵯峨天皇)を皇太弟としました。
系図にもあるように、平城天皇の父は桓武天皇、母は藤原良継の女の皇后・乙牟漏です。
平城天皇には身分の低い后妃から生まれた親王しかおらず、やむなく神野親王を皇太弟とします。

大同四年(809年)4月、突然平城天皇は皇太子神野に譲位し、平城の皇子である高岳親王を嵯峨天皇の皇太子に立てます。
大同四年(809年)12月、平城上皇は旧都である平城京へ遷幸します。
嵯峨天皇も年が明けた大同五年(810年)正月、病に倒れて元日の朝賀が行われませんでした。
同年3月、嵯峨天皇は蔵人所を設置し、同年6月には観察使を廃止して参議を復活しています。
同年9月、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出します。
これに対し嵯峨天皇は遷都によって人々が動揺するという理由で、使節を発して三関(伊勢・近江・美濃)を固めさせます。
そして、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して宮中追放に処します。
嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら畿内と紀伊の兵を徴発して東国に赴こうとします。
一方の嵯峨天皇は、坂上田村麻呂を美濃道に派遣し、拘禁されていた仲成を射殺します。
翌日、平城一行は大和国添上郡越田村(奈良市北之庄町)で行く手を遮られます。
平城は平城宮に引き返して剃髪し、薬子は服毒自殺しました。

嵯峨天皇は、平城一行に従った官人の罪を不問にし、皇太子・高岳親王を廃し、皇太弟に大伴親王(淳和天皇)を立てました。

薬子の変により、仲成たちの式家が没落し、北家が急速に勢力を伸ばし、藤原氏の平安朝へと時代が変遷していきます。

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