藤原氏の天下到来

藤原氏の影響
藤原氏の天下到来

藤原氏の天下が到来するまでを順にみていきましょう。

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菅原道真の左遷

神亀六年(729年)、藤原不比等の息子達は、長屋王の変を起こし長屋王を殺害、藤原四兄弟が実権を掌握します。

寛平七年(895年)、菅原道真は宇多天皇の側近として抜擢され、藤原氏の3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任されます。
寛平九年(897年)、宇多天皇は退位し幼い醍醐天皇に譲位します。
昌泰二年(899年)、菅原道真は右大臣に昇進して、藤原時平と菅原道真が左右大臣として並立します。
道真の右大臣への昇進が、藤原氏の公卿たちの反感を買います。
さらに宇多上皇が出家したことで道真が孤立していきます。
昌泰四年(901年)、「菅原道真が宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して女壻の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、大宰員外帥に左遷されます。
さらに、道真の嫡子である菅原高視は流罪に処せられています。
これで、藤原時平一派のクーデターが成功しました。

宇多天皇の時代は、寛平の治と称される改革を行いました。
そして、この寛平の治はその後、延喜の時代に継承されていきました。
この 寛平の治 はどうみても藤原氏ではなく菅原道真の治世によるところが大きかったと推測できます。

藤原時平と菅原道真はライバルでありますが仲が悪かったということはなく、この左遷は時平を担ぐ藤原氏一族の策略と考えられます。
菅原道真の左遷は、藤原氏の「私利私欲」に背くものを排除するという論理でなされたものと言えるのです。

それを示すのが、延長八年(930年)の 清涼殿落雷事件 です。
これは、清涼殿に雷が落ち、道真事件に関わった藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出て、醍醐天皇も3ヶ月後に崩御します。
この事件が道真の怨霊による祟りが原因とされたのです。
つまり、道真が冤罪であったということを物語っているのです。

安和の変

康保四年(967年)、聖帝の誉れ高かった村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位します。
関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣に藤原師尹が就任しました。

冷泉天皇は幼少の頃から奇行が多く、狂気の天皇といわれました。
例えば一日中鞠を蹴って足を負傷しても止めなかったり、村上天皇からの手紙の返事に、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけたりしたのです。

さらに不幸だったのが、外戚関係であった藤原師輔が死亡(960年)、母の皇后安子が964年に死亡します。
関白職にあった藤原実頼が実質最高権力の地位でしたが、外戚関係にないため、統率する力がありませんでした。

実頼に続くのが左大臣の源高明でした。
源高明は、父親が醍醐天皇、母親が源周子(源唱の娘)で、師輔の娘を妻とするなど実力者藤原師輔やその娘の中宮・安子の後援も得て、朝廷で重んじられていました。
ところが師輔、安子の死で後援者を失い、村上天皇の崩御でさらに後ろ盾を失います。
源高明は、自身の娘を次期春宮の有力候補であった為平親王の妃とします。
この縁組が藤原氏にとっては驚異となりました。
つまり、男子が生まれると源高明が天皇の外戚となる恐れが出てきたのです。
そして、康保四年(967年)、新東宮(皇太子)は、為平親王の同母弟であった守平親王に決定します。
まさに、藤原氏の意向が取り入れられた結果となりました。

安和二年(969年)、安和の変が勃発します。
左馬助 源満仲と前武蔵介 藤原善時の二人が、中務少輔 橘繁延と左兵衛大尉 源連の謀反を密告したのです。
この知らせを受けて、右大臣師尹以下の公卿はただちに参内し、宮中の諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧侶である蓮茂や、検非違使 源満季、前相模介 藤原千晴とその子久頼などを捕らえて訊問に入りました。
さらに、関所を固める固関使も出発するなど大騒動に発展します。

結局、左大臣源高明を太宰権帥に左遷することが決定します。
まさに、菅原道真の左遷と同じことが行われたのです。
最終的には、源高明は左大臣の職を解任され、右大臣だった藤原師尹が左大臣につき、右大臣には大納言の藤原在衡が昇進しました。
密告した源満仲と藤原善時の二人は昇進し、 橘繁延が土佐に藤原千晴を隠岐に、僧侶蓮茂を佐渡に流罪となりました。
これが安和の変の概要です。

菅原道真の左遷も安和の変もどちらも藤原氏側が仕掛けた事変です。
菅原道真も源高明も冤罪です。
藤原の私利私欲のために敵は葬り去られたのです。

そして、この安和の変を最後に藤原氏の他氏排除の企みは終わりとなります。
これで、藤原氏を脅かすほどの力を持った氏族は一掃され、この後は藤原氏内部の勢力争いへと変化していきます。

藤氏長者とは

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)とは、藤原氏の氏長者、つまり藤原氏の代表者のことです。
藤氏長者の発祥は定かではありませんが、鎌倉時代、天皇と藤原氏の勢力争いの一因となりました。
藤氏長者は明治維新の九条道孝まで続きました。

五摂家

五摂家とは、藤原北家が鎌倉時代以降に分かれた藤原氏嫡流の五家のことで、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家のことをいいます。
摂政関白を出す家柄を摂関家あるいは摂家といいました。
摂政関白はこの五摂家から必ず補任されることになり、この摂関制度は江戸末期まで続きました。
権力であった江戸幕府が崩壊したから無くなっただけであり、明治時代になっても藤原の力は依然残り、第二次大戦後に弱まるまで続くのです。
その代表が近衛文麿です。
近衛文麿は、五摂家の近衞家の第30代当主で、内閣総理大臣を三回やった政治家でもあります。
A級戦犯に指定され最後は服毒自殺したといわれています。

藤原氏の系図:五摂家
藤原氏の系図:五摂家を中心に

藤原氏の氏神「春日大社」

興福寺とともに藤原氏と関係深いのが春日大社です。
ここには中臣氏の祖神である天児屋根命も祀られています。
鎌足は中臣氏として突然、歴史に登場します。
記紀には、鎌足の父母の名前も記されていません。
その他、『藤氏家伝』『大織冠伝』などには中臣御食子が父と記されていますが記紀には記されていません。
大化の改新を成し遂げた重要人物でありながら出自が不明な扱いなのです。
これだけ重要な人物、意図的に出自が隠されたと見るのが自然です。

更に不思議なのが、天児屋根命の上の祭神として武甕槌命と経津主命を祀っていることです。
中臣氏の祖神を差し置いて祀られている2つの神があるのです。
このあたりは、関裕二氏、大和岩雄氏、田村圓澄氏など著名な歴史家が論じているとおり、いろいろな説がありここでは論じません。
『日本書紀』が鎌足を中臣氏の系統であるとしているのと矛盾しています。

春日大社は藤原氏の氏神として奈良・平安時代以降、興隆していきます。
1946年という戦後になっても、春日大社は力を示し、全国の春日神社との混同を避けるという名目で「官幣大社春日神社」から、「春日大社」と改称しています。
ここでも皇族としての藤原氏の影響を感じざるを得ません。

藤原氏の氏神「春日大社」
藤原氏の氏神「春日大社」

春日大社は、奈良県奈良市春日野町にある官幣大社です。
中臣氏・藤原氏の氏神を祀っています。
768年、平城京の守護と国民の繁栄を祈願して設立されました。
戦後、春日神社との混同を避けるため、春日大社に改称されます。
御祭神は、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神です。

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