近衛文麿 昭和の藤原氏

近衛文麿 昭和の藤原氏
貴族の象徴 近衛文麿

近衛文麿は、公家でありながら政治家として昭和時代、首相まで登りつめた藤原氏の末裔です。
この近衛文麿、藤原氏をそのまま体現した人物でした。

関連記事:持統天皇の謎
関連記事:藤原不比等の出自と藤原氏の闇
関連記事:藤原氏の正体
関連記事:藤原氏の天下到来
関連記事:近衛文麿 昭和の藤原氏
関連記事:藤原道長
関連記事:藤原摂関政治と狂気の天皇:冷泉天皇・花山天皇

藤原氏の系図
藤原氏の系図

近衛文麿は明治二四年(1891年)10月に生まれ、昭和二十年(1945年)12月16日に死亡、死因は青酸カリによる服毒自殺と公表されています。
同じ藤原氏系統の西園寺公望と近衛文麿は京都の清風荘で面会しています。
西園寺公望は同じ藤原氏系統で格上の近衛文麿を気に入り交流するようになります。
近衛文麿は、西園寺公望の孫、西園寺公一と出会います。
西園寺公一は、ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり公爵家廃嫡となる共産主義者でした。
共産主義は農民開放という名目で成長していきますが、実態は西園寺公一のような裕福な貴族階級が支配していました。
マルクスにしてもエンゲルスにしても、実家は裕福な家柄でした。
農民のための開放運動というのは初期の頃の題目であり、その後暴力革命、独裁恐怖政治へと変遷していくのは自明の理です。

近衛内閣の出来事

近衛文麿が首相時代に起こった出来事を列挙してみます。
この人物が日本をどうしたいのか、思想信条が見えてきます。

  • 盧溝橋事件
  • 支那事変
  • 中国国民党左派の汪兆銘に接近して和平派を切り崩し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止
  • 石原莞爾の失脚
  • 大政翼賛会成立
  • 日独伊三国軍事同盟を締結
  • 日ソ中立条約を締結
  • 「荻外荘会談」で対米戦争への対応を協議
  • 第二次近衛内閣で北進論の松岡洋右を更迭するため内閣総辞職
  • 南部仏印進駐を実行
  • 政権を投げ出し、内閣総辞職、東条内閣成立、真珠湾攻撃へ
  • 内閣総辞職と同時にゾルゲ事件に連座していた尾崎秀実と西園寺公一を検挙

日本を戦争へと導いた近衛文麿

日本を大東亜戦争に導いた原因を東条英機首相に帰するのが現在の主流です。
もちろんこれは、東京裁判史観と呼ばれるものの典型です。
つまり、戦勝国側、国際連合として今でも続く力関係で動いています。
しかし、上記の出来事を見れば分かる通り、日本を大東亜戦争に導いたのは近衛文麿が首相だった時代です。
近衛文麿一人の力で全てを遂行したとはいえませんが、方向性を導いたのは日本のトップリーダーであった首相の力です。
最後は自殺とされていますが、東京裁判にかけられる出頭日の前日死亡し、真実は闇に葬られました。

この近衛文麿、藤原系公家として貴族色を強く帯びた思想の持ち主であり、我が世のためなら手段を選ばず実行していくという藤原氏の性格を強くもった人物でした。
それを表す例が、下記の資料にあります。
ナチスに憧れ大政翼賛会を作り、ヒトラーの仮装をして興に入っています。
藤原氏の後継として我が世の春を獲得しようと、独裁政治に憧れ、当時流行していた共産主義をも吸収し戦争へと傾倒していきます。

近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。

山本七平『裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか』祥伝社、2004年

昭和十六年(1941年)6月、独ソ戦争が勃発します。
日本は北進し、ドイツと日本でソ連を挟み撃ちにするという戦略が陸軍を中心に出てきます。
アメリカと戦争をせず、日本が生き残る絶好のチャンスがソ連への北進でした。
残念ながら、昭和天皇も北進案には消極的だったといわれています。
この北進論を阻止するように近衛内閣は内閣総辞職まで行い北進論者の松岡洋右外相を更迭、南部仏印進行を決定します。
日本が勝利しては困る連中の策略に乗せられるように、近衛は北進ではなく南進を決定します。
日本は千載一遇のチャンスを取り逃がします。
裏で画策したのは日本を破滅させたい共産勢力です。

この時、日本にとって最大の敵は共産ソ連軍でした。
東アジアの平和を妨害した日露戦争から続くソ連の満州、朝鮮侵攻です。
満州建国の最大の理由は、ソ連共産勢力からの防御でした。
ソ連の支援を受けてモンゴルに共産国家が誕生し、モンゴルを盾に先兵として使い、ソ連は満州侵略を狙います。
共産勢力が満州に及び治安が悪化、日本人の生命も脅かされていきます。
これを防ぐためには満州建国が急務でした。
共産主義の侵略を最も恐れていたのです。
ですが、近衛文麿は共産主義勢力を受け入れたため、飲み込まれていきます。

しかし、戦争突入を前に政権を投げ出し東条英機に責任を押し付けています。
実はこれも近衛文麿が作ったシナリオだったといわれています。
東条英機はアメリカとの戦争には慎重であったといいます。
東条英機首相と近衛文麿との見解の不一致が首相辞任理由というのは間違いで、東条英機を後継にするというのは近衛文麿の意見でした。
アメリカとの開戦を裏で企図する人間にとっては、アメリカとの開戦時に首相であってはならないわけです。

近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった。

海軍大将・井上成美の近衛評

この近衛文麿、藤原系公家として貴族色を強く帯びた思想の持ち主であり、我が世のためなら手段を選ばず実行していくという藤原氏の性格を強くもった人物でした。
藤原道長を好み、「この世をば我がよとぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」を愛したと言います。
京都市左京区に陽明文庫という近衛文麿が設立した歴史資料館があります。
藤原道長の日記である国宝「御堂関白記」を所有しており、近衛文麿が道長を崇敬していたことがわかります。
上級貴族に生まれその地位を誇示しますが、強い意志もなく責任を自ら引き受ける気概もないのは、上級貴族の特徴でもあります。
まさに外戚として天皇を影で操るが如き藤原氏の政治そのものです。
そして、責任を全うすること無く泥沼の戦争へと突入し、敗戦という結果を迎えるのです。

近衛上奏文

近衛文麿が行ったものに近衛上奏文というものがあります。
近衛文麿が、昭和20年(1945年)2月14日、昭和天皇に出した上奏文です。

まず、 近衛上奏文の冒頭で「国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり」と述べ、ソ連の共産勢力の驚異が及んでいることを危惧します。

「抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる」と述べ、軍部の赤化が戦争を招いたことを主張します。

「是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命に迄引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存ず」

そして、近衛文麿は、これらの共産勢力の日本への浸透を経験した当事者として反省します。

「此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり」

「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり」
つまり、1億総玉砕を叫んで徹底抗戦の機運を盛り上げようとするのは、日本を破滅に向かわせる共産勢力の力だということを主張します。

「それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る」
このように日本を共産革命から守るのが最優先事項だと、最後に閉めています。

近衛の責任論はここでは置いておいて、近衛上奏文は、共産主義の恐ろしさを詳らかに述べていて、大東亜戦争、第二次世界大戦へと日本を破滅へと向かわせたのが共産勢力だったということがわかります。
側近に共産勢力を使い、自らの手の中で踊らせたように思っていたのが、彼らに侵食され踊らされていたのは近衛文麿自身だったことを後悔しているのです。

Follow me!

全般

前の記事

藤原氏の天下到来
平安・鎌倉・室町時代

次の記事

藤原道長