岩宿遺跡

民間研究者の相澤忠洋(相沢忠洋)

教科書に載っている有名な遺跡が岩宿遺跡です。

群馬県赤城山麓の赤土(関東ローム層)で相澤忠洋氏が発見した数々の旧石器時代の遺跡の
ことです。

今では、さらっと教科書で数行で紹介されるだけの岩宿遺跡ですが、色々面白いストーリーが
残されています。

岩宿遺跡の場所は、当時の住所で群馬県新田郡笠懸村大字阿左美。
現在は群馬県みどり市笠懸町阿左美。

稲荷山と山寺山の境の町道の切通しを歩いていて、赤土の断面で黒曜石の槍先形をした石器
突き刺さっているのを見つけたのです。

昭和21年(1946年)民間の考古学研究者、当時20歳の相澤忠洋氏が石器を発見したことが
世紀の大発見のきっかけでした。

相澤は、「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」

http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tadahiro/tadahiro.html

相澤忠洋記念館より引用

石器が赤土に突き刺さっていたことを確かに目で見て確かめたことが述べられています。

なぜなら、拾ったものであれば、石器は赤土の中に存在していたとはいえず、たまたま落ちて
いたり、違う場所で見つけたものを後で誰かが埋め戻したということも考えられるからです。

考古学ではその辺、気にするところらしく、どこに埋蔵されていたかということで年代とか
本当にあったのかを証明するものなのです。

考古学者は、遺跡が出たと知らされると、まずは現状維持を優先するそうです。
なんだか、警察の現場検証みたいですね。
現在は炭素14年代測定とか最新技術で年代特定しますが、当時は現場の物証しかないですから
致し方ないですね。

槍先形尖頭器といわれる重要な発見ですが、ここから調査・研究が始まります。

相沢忠洋(相澤忠洋)氏は民間の考古学者です。納豆の行商をしながら研究を行ったそうです。
納豆の行商を選んだのも、サラリーマンでは好きな発掘ができず、行商であれば発掘もできる
ということで選んだ職業だとか。

相澤氏は、知り合いだった明治大学の考古学者、芹沢長介氏に相談し共同研究がスタート。

明治大学の杉原荘介氏、岡本勇氏と共に、岩宿遺跡の発掘調査を行いました。

1949年9月、共同調査隊はついに関東ローム層の中から石器が出土することを確認しました。
その後、数回発掘調査が行われ下記のことが明確になりました。

・関東ローム層から発見された遺跡に土器は含まれない

・層を違えて2つの石器群が発見された。

・約3.5万年前(岩宿I石器文化)と約2.5万年前(岩宿II石器文化)の二段階ある

・岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にあった

昭和24年9月20日毎日新聞に「旧石器の握槌 群馬県で発見 十万年前と推定」と報道されました。
ただし、そこには相澤氏の名前はありませんでした。
「地元アマチュア考古学者が ここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを明治大学の
杉原助教授が発見・・・・」

一番の功労者である相澤氏の名前が抹殺されたのです。
明治大学の功績とされてしまったようです。
それには芹沢長介氏と杉原氏の間での確執があったとも言われます。
相澤さん、名前を出してもらえず、可愛そうですね。

当時の考古学の常識

岩宿遺跡発掘以前、赤土(関東ローム層)が出ると、それ以上掘ることはなかったそうです。
土器を使っていた縄文時代の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。

当時はどういう時代かというと、1万年前に日本列島に人が住んでいたはずがない、という
のが考古学では常識でした。縄文人が最古の人類だと信じられていたのですね。
固定観念というのはなかなか抜けきらないものです。学者先生でもそうなっちゃうんです。

それと、時代背景として太平洋戦争に敗れ、公職追放とか皇国史観の排除とかで学問どころ
ではないし、日本が優れていたという事象は抹殺される機運だったらしい。
逆にその人材不足と反骨精神により、民間から偉大な研究が生まれたのかもしれませんね。

一部の学者の中にはこの固定観念を疑問視する人もいて、芹沢長介氏もその一人でした。
そして、相沢忠洋(相澤忠洋)氏と組んで世紀の大発見に至るのです。
その後、芹沢長介氏は、明大の杉原荘介教授と対立し、東北大学へ転職します。

日本考古学協会 第4回総会の場でも報告されたけど、話題にもならなかったそうですから
可愛そうです。

日本考古学協会というのも今話題の日本学術会議の指定団体だそうで、さもありなんです。

日本の歴史的大発見

岩宿遺跡を発見した相澤の考古学調査はその後も続きました。
発見した遺跡の数は21カ所にものぼっています。
そのなかでも、もっとも最後に発見されたのが、現在記念館のある夏井戸遺跡です。

この夏井戸遺跡は約6万年以上前の年代が与えられており、前期旧石器時代のものと
されています。
相澤はこの場所に廃バスをもちこみ、「赤城人類文化研究所旧石器研究室」を開設。
そして、仲間たちと共同で発掘をおこないました。
そして、いつの日か夏井戸から旧石器時代人の人骨を掘り出すことを夢見たのです。

http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tadahiro/tadahiro.html

現代、日本列島で4000か所以上の旧石器時代とみられる遺跡が確認されています。
これらの遺跡のほとんどが約3万年前~約12000年前の後期旧石器時代のものです。

ということで、相澤さんの発見は、日本の歴史において大転換を招いたのでした。

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