邪馬台国と卑弥呼についての自説

邪馬台国の場所が特定できないために、畿内説、九州説を中心に議論が巻き起こっています。
魏志倭人伝の情報が少ないため、確かな証拠が出てこない限り水掛け論ではありますが、自分の考えを述べてみたいと思います。

田中英道さんの書かれた『邪馬台国は存在しなかった』にあるように、魏志倭人伝はもともとおかしい、様々に解釈し合っているに過ぎないという主張も一理あります。
邪馬台国論争は、マルクス主義史観という唯物史観がはびこる日本の歴史学界の議論のひとつにすぎない、という主張は賛同すべき内容です。
ただし、そもそも歴史学は少ない史料から事実を究明するという学問なので、そこを否定しては可愛そうです。
どこが間違いでどこが正しいかを含めて分析検証するのが学問だとも思います。
人伝に聞いた内容を外国人が記載しているので、正確性に欠けることを前提で分析してみるしかありません。

このサイトで以前記載した邪馬台国と卑弥呼に関する記事を紹介します。

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邪馬台国の場所について

邪馬台国畿内説(大和説)について

邪馬台国畿内説は、大和(今の奈良県の纒向遺跡)に邪馬台国があったとする主張です。
「魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはずで、纒向遺跡という大規模遺構がそれを証明している」という仮説です。
3世紀、4世紀ごろは近畿地方が日本の中心だったのだからその首都は大和だろう、というのは理に適っています。

疑問に思うのは、中国の史書である『後漢書』東夷伝や『魏志倭人伝』に大和地方にたどり着く記述がないということです。
九州と思われる地域名と距離の記載はあるのに、大和を想起させる記述がまったくないのはどうしてでしょうか。
確かに方向を「南」を誤記だとして「東」に変えれば、辻褄が合うかもしれませんが、少し根拠が弱いですよね。
他の中国の史書、例えば『北史』倭国伝などには、たとえ魏志倭人伝の写しであったとしても、訂正なく「南」と書かれています。
文脈の流れからすると、素直に読めば九州地方のことを記載していると考えられます。
そして、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」との記述があります。
会稽から直接行けるのは九州島であり、「正に東」を素直に読めば、大和ではないでしょう。
会稽からみて大和は緯度が少し北ですし、直接行くことは出来ません。
会稽から船で日本列島にいく場合、北部九州に至り出雲を経由し丹後から大和に抜けるルートをとれば、船でも大和に達することは可能です。
しかし、わざわざ帯方郡とは別に、敢えて会稽東冶から「正に東」と記述することは、九州島を対象とする以外には無理があります。

黥面文身文化は大和にはない

男子の黥面文身の話が出て来ます。黥面文身とは入墨のことです。
なぜ入墨をしているのかを説明していて、中国の会稽がこの入墨をした人達の故地であると言っています。
彼らは水中に潜って魚や蛤を採っていると。
サメやヘビなどの害を避けるために入墨をしていたのが、最近は飾りとして入れているとか。
黥面文身は遭難時の身元識別のための意味もあるそうです。
このように魏志倭人伝が黥面文身を多く記載しているのは、会稽に住む越人と日本の倭人が同族であったことを言いたかったと思われます。

まさに、黥面文身は海人の風習であり、海人のことを記述していると言っていいでしょう。

『古事記』には、神武天皇から伊須気余理比売への結婚の使者として来た大久米命の「黥ける利目」を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じたとの歌のやり取りがあります。
古代の畿内地方には入墨の習俗が存在せず、入墨の風習を持つ人々が外来の者として認識されたという意見です。(否定論あり)
近畿や東海、四国から黥面埴輪が出土していることから、日本各地で入墨は行われていたという主張もあるようです。
しかし、埴輪はあくまでも埴輪に過ぎず、その文化をそのまま表しているとはいえないでしょう。
埴輪には、厄除け、呪術的側面もあるのですから。
私は、『古事記』で皇女が入墨に驚く様子をわざわざ載せたのは、大和政権と九州熊襲系の民族は別物であり、神武天皇と大和系の伊須気余理比売との婚姻が、皇統の正統性を持つことを言いたかったのだと考えます。

水田稲作中心の大和系民族の文化において黥面文身は不要だったとみられます。
それゆえ『古事記』は、海の民の文化である黥面文身を敢えて違う民族の文化だと言いたかったわけです。
水田稲作中心の『古事記』『日本書紀』にとって、邪馬台国という海人王国は別系統のお話であって、だから卑弥呼も邪馬台国も出てこないのではないでしょうか。
ただし、卑弥呼が海人族であるかどうかは、もう少し調べる必要があります。
もともと海人族ではなく農耕民であって、農耕民の女王が海人族を従属させた可能性もあります。

邪馬台国畿内説の可能性は低い

というわけで、邪馬台国が畿内(大和)に存在した、という主張に私は賛同いたしません。
それでは、邪馬台国はどこにあったのか?
九州なのか出雲なのか、九州だったら南九州なのか北九州なのか?

邪馬台国九州説について

九州説でも場所の特定には至らないのでは?
こちらの邪馬台国論争でも少し書いたとおり、九州のどこなのか議論が分かれます。

筑後山門説や豊前山戸説など

福岡県みやま市瀬高町を邪馬台国とするのが筑後山門説です。

邪馬台国の読み方を「やまと」と解釈し、山門という地名と同一性があると主張します。
確かに「やまと」と同音であることは、面白い見解であり、納得感があります。
ただ、若干決め手にかけるのは、山門という地名がここだけではないということです。
豊前山戸説というのもあり、ここでも「やまと」と読んで地名同一性を主張しています。
そもそも邪馬台国の「台」は中国語で「臺」なのか「壹」なのかで議論があります。
どうも「臺」ではなく「壹」なのが通説のようです。
そうなると、邪馬台国は「やまたい」が正しい読みとなるようなので、「やまと」ではなくなります。

筑後山門説では、女山という山が卑弥呼の居城跡で、山を包囲する形で「神籠石」という列石が築かれているといいます。
女山は「ぞやま」と呼ばれ、「じょうおうやま」が訛ったものという言い伝えがあるそうです。
邪馬台国を「やまと」と呼んだ時点で、残念ながら現在の定説ではなくなりますので、少し論拠が弱い感じですね。
「やまと」と読むなら、邪馬台国=大和王権とした方が理屈に合うかもしれません。

❝南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月❞
これを間違いだとして無視しているのが気になります。
水行10日をものすごく遠いものだと勘違いしているようですね。
当時は丸木舟に近い原始的な手漕ぎ船ですので、一日に行けるのは20km程度です。
10日✕20km=200kmとそれほどの距離ではありません。
陸行にしても、当時は今のような舗装された道ではなく獣道に近いものなので、一日に行けるのは10km程度でしょう。
休憩しながら行くと、せいぜい100~200km程度の移動です。
そうなると、九州島のなかで収まりそうです。

❝南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月❞を無視すれば、九州北部説でしょう。
無視しなければ、九州南部説も可能性が出てきます。

邪馬台国九州南部説を検討してみる

邪馬台国の場所

❝自郡至女王國、萬二千餘里❞
帯方郡から女王国までは一万二千里。

帯方郡から邪馬台国まで1万2千里とあります。
12000里✕80m=960km
12000里✕70m=840km

ソウルから福岡まで直線距離で540kmです。
福岡から宮崎まで直線距離で300kmです。
福岡から鹿児島まで直線距離で280kmです。
福岡から熊本まで直線距離で120kmです。

❝南至投馬國水行二十日 ・・・ 可五萬餘戸❞
南に水行20日で投馬国に達する。・・・5万ばかりの住居がある。
❝南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 ・・・ 可七萬餘戸❞
南に水行10日、陸行1月で邪馬台国に達する。・・・7万ばかりの住居がある。

5万戸の住居というから、かなり大都市です。
邪馬台国の7万戸よりは少し小さい都市でしょうか。
伝聞をそのまま書いたのでしょう、かなり脚色があるようです。

超概算の距離見積もりで、熊本は少し短く660km、宮崎が840km、鹿児島が820km。
佐賀平野あたりに不弥国があった可能性が出てきました。もしかすると吉野ヶ里遺跡かな。
不弥国からは水行20日です。陸行は狗奴国(熊襲)が危なくて行けなかったのか、陸行とは書かれていません。
投馬国からは水行と陸行です。
もう一つの案が、投馬国が大分県今の宇佐、中津市あたりにあったのではないかというものです。
当時人口の多かったのは、豊の国といわれた豊前、豊後あたりだからです。
福岡よりも米が穫れて開けていたらしい。
ぐるっと鹿児島を大回りして宮崎にはいったのか。
うーん、陸行が1日であればピッタリなんですけど。「日」と「月」の間違いではないかなあ??
この辺、誰も行った人が作者の周りにいなければ、間違っても気が付きません。
「東」と「南」に比べれば、間違える確度が高いでしょう。
当初は正しくても、写し間違いもありそうです。

状況証拠はどうか?

魏志倭人伝だけでは結論に達しないのは明らかです。
犯人が自白しないのなら、状況証拠を調べるしかありません。
なんせ、作者は生きていませんし、自白した内容がメチャクチャで意味不明ですから。

長くなってきたので、次回に続きます。


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