富雄丸山古墳で出土した鏡、被葬者は誰?

国宝級の大発見、奈良「富雄丸山古墳」一般公開に2日間で4500人が詰めかける

2023年1月、ニュースで歴史学上大発見があったと報じられました。
富雄丸山古墳で類例のない盾形銅鏡、日本最大規模の蛇行剣が出土したというものです。

「国宝級の大発見」の速報(1月25日)が出たことで、奈良市西部の日本最大の円墳「富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)」(奈良県奈良市)が高い注目を集めている。

その速報直後の1月28・29日には、一般向けの現地公開がおこなわれ、出土現場を見学できる最後の機会とあって、28日には1403人、29日には3100人と、考古学ファンのみならず、多くの地元住民が長蛇の列をなした。

同古墳から出土したのは、類例の無い異形の銅鏡「盾形銅鏡」(全長約64cm、横幅約31cm)と全長2メートルを超える日本最大の剣「蛇行剣(だこうけん)」(全長237cm)で、どちらも国内最大であり、まさしく国宝級だ。

国宝級の大発見、奈良「富雄丸山古墳」一般公開に2日間で4500人が詰めかける

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)は、奈良県北部の奈良市丸山にある4世紀後半築造されたとされる日本最大規模の円墳です。
4世紀後半というと、西暦300年代の後半にあたり、崇神天皇から応神天皇の時代と考えています。
もう少し広げると、欠史八代のあと崇神天皇以降、応神天皇以前と言えるでしょうか。
もちろんこれは、紀年をどう考えるかによって大きく変化します。
「宋書倭国伝」によると421年、倭の五王にあたる讃が朝貢したという記録がありますので、讃=菟道稚郎子または仁徳天皇または応神天皇とすると、応神天皇以前であるとわかります。
つまり、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇となります。

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また、前方後円墳と類型の異なる円墳ということで、ヤマト王権とは別系統の豪族ではないかと推測されます。
前方後円墳は、3世紀中頃から7世紀初頭にかけて広まったヤマト王権の典型的な古墳です。
最古の前方後円墳と言われるのが、纒向遺跡です。
この纒向遺跡は、3世紀中頃と言われますので、4世紀はまだ円墳の勢力が残っていたのでしょう。
この富雄丸山古墳がある場所は、神武天皇が東征の際に戦ったと言われる長髄彦が領有していた地域です。
長髄彦には別名があり、登美能那賀須泥毘古、登美毘古、那賀須泥毘古、鳥見彦などがあります。
トミ==>富雄と変化したとも言われます。
長髄彦は神武天皇の時代であり、富雄丸山古墳の時代より2世紀ほど古いので、その子孫であれば可能性が出てきます。
そうなると、被葬者は、物部系の豪族、例えば饒速日尊、宇摩志麻遅命の系統にあたる出雲国の末裔ではないかと推測が広がります。

しかし、出雲系は四隅突出型墳丘墓と言われますので、少し可能性が低くなります。

Wikipediaを引用し自作

木棺の発掘

2024年2月6日、富雄丸山古墳で新たな発掘がありました。

高野槙の丸太をくり抜いて作られた、幅は70cmほど、長さは5.3m超の「木棺」が発掘されました。

普段腐って残らない木棺が発掘されることは極めて珍しく、奇跡的に出土しました。

出土したのは、割竹形木棺で築造時に近い状態でした。
割竹形木棺は、丸太を縦に二つ割りにして中を刳り抜き、棺身と棺蓋を造り合わせて長大な円筒形の棺としたものです。
金属探知機で反応があったため、副葬品の可能性を調査するようです。

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