縄文と弥生の間:板付遺跡

板付遺跡

板付遺跡は、福岡市博多区板付の台地上にある遺跡です。
縄文海進によって福岡平野が海に沈み、再び平野に人が住み始めるのは平野の河川上流・中流域か小高い丘、台地、河岸段丘でした。
なぜ段丘上に人が住みだしたかというと、河川から水路を通して水を引き水田稲作を行うためでした。
板付遺跡の重要さは、水路を通して水を引き給水する必要がある乾田を縄文時代晩期から弥生時代早期に作っていたことです。

なお、現在日本最古の水稲稲作遺跡は佐賀県唐津市の菜畑遺跡です。
弥生時代早期、炭素14年代(較正年代)で紀元前9世紀頃の水田跡の遺跡です。

縄文時代の水田発見と環濠集落

板付遺跡からは、日本最古の環濠集落跡が見つかっています。
日本列島最初の農村です。
長径約110mの楕円形の範囲を濠状遺構が取り囲む集落の姿が発掘されました。
縄文時代の晩期と考えられてきた夜臼式土器の地層にも水田があることが分かり、「縄文時代の水田」としてニュースになったほどでした。
1978年、縄文晩期と信じられてきた夜臼式土器時代の遺跡から水田遺構と木製の鍬、石製の包丁、炭化したコメ(ジャポニカ米)が見つかりました。
縄文土器とされていた晩期の夜臼式土器と弥生土器とされていた板付Ⅰ式土器を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性を示しています。
板付Ⅰ式土器は弥生時代前期の九州、西日本に広まった遠賀川式土器の特徴を持っています。
遠賀川式土器は水田稲作の広がりの指標になる土器です。

有孔石斧

板付遺跡では1954年の調査で有孔石斧が出土しています。有孔石斧とは磨製石斧のことで、穴が空いているのが特徴です。
朝鮮半島では忠清南道内池里で採集された有孔石斧などの例がありますが、その形状は板付遺跡のものとは似ておらず、朝鮮半島由来ではないと推定できます。
板付遺跡の石斧と同じ類型のものが中国旅大市羊頭窪貝塚、琉璃河53号墓で発掘されていて注目されるべき遺跡です。
琉璃河1193号墓の被葬者は燕侯とみられ、琉璃河は西周時代の遺跡です。
弥生時代前期と西周時代(紀元前1100年~紀元前771年)が同じ時代であることを示唆してくれます。

水田を拓くという意味

縄文人は食料を獲得する目的で大幅な自然改変を行うことはない。
木の実のなる大切な森を根こそぎ伐採して、そこに水路を引いて水田を造るという発想は、
縄文からは出てこない。それはまさに朝鮮半島青銅器文化の発想である。水田稲作の開始
とは、単なる食料獲得手段の変更にとどまらない。社会面や精神的な面までも巻き込んだ
生活全体の大変革だったことがわかるだろう。これは、縄文人が見よう見まねで出来るよ
うなことではないので、朝鮮半島南部から来た人びとが何らかの形で関わっていたことは
間違いない。
精神的な転換をともなう水田稲作をこのようにして一度始めてしまえば、あとは何が何で
も水田稲作にしがみついてコメを作り続けるしかなくなる。

『弥生時代の歴史』 藤尾慎一郎 講談社現代新書

藤尾氏のいう「朝鮮半島南部から来た人びとが関わっていた」かどうかは議論の余地がありますが、外来技術の採用が大変革だったことは、賛同できる学説です。

水稲稲作はその後ゆっくりと西日本から東に広がっていきます。

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