日本国の領域と朝鮮半島:BC2000年以降

前回の記事(日本と朝鮮半島:先史時代)はこちら

前回、日本と朝鮮半島の領域について、先史時代を中心に書きました。
ここでは、紀元前2000年以降について考えていきます。
元々中国の東方にある辺境地だった場所が海進によって朝鮮半島に変化します。
渤海とか黄海という海が形成されますので、中国中心部からは海を隔て、ますます辺境の地となっていくわけです。
そんな未開の土地には、なかなか人がやってきませんでしたが、ようやく中国からの逃亡者や難民がやむを得ずこの辺境地に住み始めます。
中国も春秋戦国時代のような混乱期になると、亡命者としてこの地に逃げてくるものも増えてきます。
さらに北方狩猟系ツングースの人たちも食料を求め、温かい土地を探しに南下してきます。
少しずつ人口が増えてくると国らしき集団が発生します。
半島北部にはそれらの人々が混在して国が発生したと推定できます。
一方南部では、半島に近い対馬や日本列島、およびアジア南部から人々がやってきて海岸沿いに定着します。
日本人、倭種が南部地域で集団を形成していきます。
このように北と南でそれぞれ異なった民族が朝鮮半島に移り住んで人種が混在していきます。

著者作成

中国由来の箕子朝鮮

中国最古の王朝といわれるのが、殷です。
その殷の王族だった箕子が殷滅亡を契機に逃亡して作ったのが箕子朝鮮です。
つまり、中国人由来の移民集団です。
年表を見て分かりますが、箕子朝鮮は、古代中国の地方民族集団の歴史であり、朝鮮民族が独立して作る政権は、AC200年以降のことです。
朝鮮という文字が入っているため誤解しがちですが、箕子朝鮮は中国人集団の領地です。
今まで人がほとんど住んでいなかった朝鮮半島に移り住んだ場所が、今の平壌付近です。
平壌には箕子陵がありましたが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)により破壊されました。
もちろん、国家として独立した組織というものではなく、中国人の移民集団だったと思われます。

中国で殷(商)が滅び、周が成立(前1066)したあと、殷の王族だった箕氏は朝鮮へ逃れました。周の武王はこれを聞き、箕氏を朝鮮に封じたといいます。周の封を受け入れ朝鮮侯となったため、箕氏は臣礼をとり、武王十六年に箕氏が来朝したと記録されています(尚書大伝、竹書紀年等)。周が衰えた後、中国では春秋戦国という長い戦乱の時代が続きましたが、この箕氏朝鮮の存続に影響を与えることはありませんでした。
 魏志韓伝の裴松之注には、魏略曰くとして、「昔、箕氏の後の朝鮮侯は、周が衰え、燕が自らを尊んで王となり東方の地を攻略しようとするのを見て、朝鮮侯もまた自称して王となり兵を興して逆に燕を撃ち、周室を尊ばんと欲した。その大夫の礼がこれを諫めたので中止し、礼を西に使わして燕を説かせたので、燕もこれを止めて攻めなかった。後、子孫が次第に驕り残虐になったので、燕は将軍、秦開を派遣して攻め、その(朝鮮の)西方の地、二千余里を取り、満潘汗に至って境界とした。朝鮮は遂に弱まった。」と記されています。

「魏志韓伝」

衛氏朝鮮も中国由来

これまた中国人の亡命者、衛満が作ったのが衛氏朝鮮です。
衛氏朝鮮という名前は衛氏が作った朝鮮にあった集団といった程度のものです。
正式な名称が当時でも忘却されて分からなかったために、説明用にできたものだそうです。
中国も国と認めていなかったようですが、国と同等の組織、制度は存在しました。
衛氏は箕子朝鮮に続いて平壌に移り住みます。
次の楽浪郡ができるまで存在したということですので、中国領であったことは明確です。
滅ぼされた箕子朝鮮の准は、逃亡して海を経由して韓の地に居住したとあります。
後裔は絶滅したとありますので、後の三韓の祖ではないということです。
BC108年に衛氏朝鮮は滅亡します。

侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 其後絶滅 今韓人猶有奉其祭祀者 漢時屬楽浪郡四時朝謁
「(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人でその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。」

「魏志韓伝」

三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓)

ようやくこの時代になってはじめて韓が登場します。
馬韓・辰韓・弁韓とよばれる三韓です。
とはいえ、中国から国家として認められたわけではありません。
中国の辺境の地に三つの韓の地域が存在した、といったレベルです。
ただ、楽浪郡ができる以前に、三韓が存在したことは事実のようです。
楽浪郡が作られたので、南の方に定住している人々が存在したことをはじめて知った、ということでしょう。
中国の辺境地、化外の地にようやく韓の国らしきものが見えてきました。

楽浪郡・帯方郡

三韓に若干遅れて中国直轄領の楽浪郡・帯方郡が成立します。
BC108年、衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝により設置されました。
郡治所は平壌に置かれ、南部に南部都尉が置かれていました。
3世紀始めに、公孫氏の2代目、公孫康が郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡を設置しました。
楽浪郡・帯方郡は、313年高句麗に滅ぼされるまで続きました。
平壌一帯には漢文化の影響を受けた墳墓が多数存在します。
万景台古墳・金灘里古墳・於乙洞土城・葛城里甲墳・台城里古墳群・黒橋里墳墓・金石里古墳・天柱里古墳・雲城里土城・古墳群・冠山里古墳・伏獅里古墳群・富徳里古墳・葛唄里古墳・松山里唐村古墳・金大里古墳群など

魏志韓伝(馬韓)によると、帯方郡の南に三韓があったことが記載されています。

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

「魏志韓伝」

朝鮮半島に韓が存在していたことは確かなようです。
また、「南は倭と接す」とあるように、朝鮮半島に倭人が定住していたことも確かなようです。

邪馬台国を載せている「魏志倭人伝」によると、
❝倭人在帶方東南大海之中 其北岸狗邪韓國七千餘里❞
倭人は帯方郡の東南の海の中にあり。
その北岸、狗邪韓国に到達し約7000里ある。
倭人の地域が朝鮮半島南岸に及んでいることが魏志倭人伝からも分かります。

Wikipediaより引用(一部加工)

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