神功皇后と三韓征伐

神功皇后Wikipediaより引用

神功皇后とは

神功皇后 気長足姫尊」として『日本書紀』巻第九に、天皇の事績と同等の記述が独立して設けられています。

神功皇后 気長足姫尊は、開化天皇の曽孫、気長宿禰王の子です。
母は、葛城高顙媛です。
仲哀天皇の二年に皇后となりました。
仲哀天皇は、足仲彦天皇といい、日本武尊の第二子です。
神功皇后の先に叔父彦人大兄の女、大中媛を妃とされ、麛坂皇子、忍熊皇子を生みました。
敦賀にて行宮の笥飯宮を立ててお住みになりました。
宮室を穴門にたてて住まわれました。これを穴門豊浦宮といいます。

『古事記』には神功皇后という独立した項目はなく、仲哀天皇の巻の中に事績が記載されています。
仲哀天皇が大后の息長帯比売命(神功皇后)を娶って、とあります。
仲哀天皇、帯中日子天皇(倭健命の御子)は穴門の豊浦宮または筑紫の訶志比宮(橿日宮)を宮としました。

神功皇后と仲哀天皇の実在性

神功皇后と仲哀天皇が実在しないことが通説化したのは、戦後GHQ占領政策のせいです。
戦前日本の皇国史観を徹底排除するために、利用されたのが、津田左右吉です。
津田左右吉は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇と神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないということを主張し、GHQに採用されました。
そして神功皇后と仲哀天皇は、教科書から排除されました。
当時、津田の説はかなり信憑性の低い主張だったものの、皇国史観の排除というものが優先された結果でした。
それが戦後70年以上たっても消えないで残り続けているのです。
事実に基づいた定説であれば納得するのですが、政治的理由からの排除なのですから、改める必要があります。

神功皇后と仲哀天皇の実在を物語るのが天皇系図と裂田の溝そして、数多くの神社伝承です。
仲哀天皇は日本武尊の御子であり、神功皇后は息長氏の娘であると、はっきりとした出自の記載があります。
さすがに『日本書紀』編者も、虚構の人物、想像の人物を独立した巻として入れ込むことはできないでしょう。
裂田の溝という現存する水路の伝承が『日本書紀』に記載されています。
神社の伝承ならば神話でも伝わることがあるかもしれませんが、実在する水路があるというのは考古学的にも大きな論拠となるでしょう。
そして数多くの神社伝承が残ります。それも具体的な事績が多いのが特徴です。

筆者作成

日本武尊の第二子が仲哀天皇です。仲哀天皇は、足仲彦天皇と言われます。
神功皇后は、息長宿禰王と葛城高顙媛の間の御子です。
彦坐王は、開化天皇の第三皇子で、景行天皇の曾祖父です。
神功皇后は、彦坐王の子孫ですので、同じ景行天皇の同族グループに属していたと推定できます。
神功皇后の母君である葛城高顙媛は、天之日矛の子孫です。

日本の領地と朝鮮半島:3世紀以降の記事はこちら

筆者作成

裂田の溝は、福岡県那珂川市にある日本最古といわれる用水路です。
神功皇后は、那珂川の水を引いて神田に入れようと思わ溝を掘られました。
迹驚岡(とどろきのおか)に及んで、大岩が塞がっており、溝を通すことができませんでした。
神功皇后は、武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ溝を通すことを求められました。
その時、急に雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせました。
近くに裂田神社があり、裂けた岩が残っています。
神功皇后の実在を証明する一つの証拠です。

天之日矛(天日槍)と都怒我阿羅斯等

天之日矛(あめのひぼこ)は、天日槍とも書き、『日本書紀』垂仁天皇巻に新羅王子の天日槍が渡来したと記されています。
『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子の天之日矛が渡来したとし、その渡来の理由が記されています。
天之日矛は、日本に渡来して難波に着こうとしましたが、入ることができませんでした。
そのため再び新羅に帰ろうとしてそのまま但馬国に留まり、多遅摩之俣尾の娘の前津見を娶り、多遅摩母呂須玖を儲けます。
そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后)に至る系譜を伝えています。

なお、関連した伝承として、都怒我阿羅斯等があります。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、今の福井県敦賀の名前の由来となった渡来人(私説では倭人)で、『日本書紀』は別名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」としています。
『古事記』に都怒我阿羅斯等の記事はありません。
都怒我阿羅斯等の話は、上記にある天之日矛と同じような伝承となっています。
ただし、都怒我阿羅斯等=意富加羅国(大加耶)の王子となっていて、『日本書紀』の天之日矛=新羅王子と異なります。
これら複数の渡来人伝承が、『日本書紀』にまとめられたのではないかと推測されます。

神功皇后の熊襲征伐

神功皇后と武内宿禰勢力は、仲哀天皇崩御後、九州に留まったとみなすことができます。

三韓征伐

神功皇后の三韓征伐については、下記のような数多くの神社伝承が事実を裏付けています。

  • 香椎宮・・・福岡市東区香椎官幣大社: 仲哀天皇は橿日宮で崩御、724年に廟として創建
  • 筥崎宮・・・福岡市東区箱崎官幣大社: 応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神としてに創建
  • 住吉神社・・・福岡市博多区住吉官幣小社: 航海守護神の住吉三神を祀る三大住吉の1つ
  • 志賀海神社・・・福岡市東区大字志賀島官幣小社: 綿津見神社、海神社の総本社、阿曇氏ゆかりの地
  • 鳥飼八幡宮・・・福岡市中央区今川: 神功皇后が新羅から凱旋した際、姪浜に上陸、この地に宿泊
  • 警固神社・・・福岡市中央区天神県社: 神功皇后が三韓征伐で、警固大神を福崎に祀った
  • 宇美神社・・・粕屋郡宇美町字宇美県社: 神功皇后が応神天皇を産んだ地に、応神天皇を祀った
  • 綿津見神社・・・福岡市東区三苫: 神功皇后が三韓征伐に向かい苫が流れ着いた場所
  • 名島神社・・・福岡市東区名島: 神功皇后の三韓遠征で諸軍に郷名姓名を名乗らせ乗船した
  • 真根子神社・・・福岡市西区姪の浜: 壱伎直祖の真根子が武内宿禰の身代わりとなって自刃
  • 御島神社・・・香椎宮沖: 神功皇后が、神々の神教の当否を占と日本書紀にある神社
  • 濱男神社・・・福岡市東区香椎駅前: 神功皇后は男髪にし橿日宮に帰途、男姿となったので「濱男」
  • 壱岐神社・・・福岡市西区生の松原: 日本書記に武内宿禰の身代りで死んだ壱岐直真根子の魂を祭る
  • 松峡八幡宮・・・福岡県筑前町: 神社が羽白熊鷲と戦うために、橿日宮を経て松峡宮へ移る
  • 鎮懐石八幡宮・・・福岡県糸島市: 鎮懐石とは、神功皇后が安産を祈り身に付けられた石
  • 宮地嶽神社・・・福岡県福津市宮司元町: 神功皇后渡韓の折、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設けた
  • 大分八幡宮・・・福岡県飯塚市大分: 筥崎宮の元宮、神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留
  • 宇佐神宮・・・大分県宇佐市官幣大社: 八幡宮の総本社で主神の比売大神は地主神
  • 廣田神社・・・兵庫県西宮市大社町: 官幣大社 神功皇后は葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた
  • 長田神社・・・兵庫県神戸市長田区長田町: 官幣中社 神功皇后が新羅の帰途、事代主の神託を受け創祀
  • 生田神社・・・兵庫県神戸市中央区下山手通: 官幣中社 神功皇后が帰途、稚日女尊の神託を受け創祀
  • 弓弦羽神社・・・兵庫県神戸市東灘区御影郡家: 神功皇后が帰途、忍熊王挙兵を知り熊野大神に戦勝を祈願
  • 魚吹八幡神社・・・兵庫県姫路市網干区宮内: 津の宮とも呼ばれ、神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建
筆者作成
筆者作成

宇美神社には、神功皇后が新羅征伐の帰路、応神天皇を出産されたという伝承が残っています。
三韓征伐を終えた神功皇后は、ヤマトへの帰路、神戸、西宮あたりで次々に祭祀を行っています。
生田神社、長田神社、廣田神社です。

三国史記による年代推定

朝鮮半島の正史『三国史記』と好太王碑文によって神功皇后三韓征伐の年代を推定してみましょう。

■三国史記(百済本紀)

397年 阿莘王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 倭国の使者が来たので、阿莘王はこれを迎えて慰労し、特に厚く遇した。
409年 倭国が使者を遣わし、夜明珠を送ってきた。腆支王は、あつく礼遇して、歓待した。
418年 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。

倭・倭人関連の朝鮮文献Wikipediaより引用

■三国史記(新羅本紀)

364年 倭兵が大挙して侵入してきた。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
402年 倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻めるが勝てず撤退した。新羅王自ら追撃し、倭軍は敗れ三百人が戦死した。
407年 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻め百人を捕らえて連れ去った。

倭・倭人関連の朝鮮文献Wikipediaより引用

■好太王碑
391年から404年にかけて、倭が百済・新羅に侵攻したことが書かれています。

391年 新羅・百残は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が百残・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。新羅からの使いが「高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年 5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年 倭が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

倭・倭人関連の朝鮮文献Wikipediaより引用

364年~407年にかけて、倭国が百済・新羅を攻めたことがわかります。
この年代に神功皇后が三韓征伐を行ったと推定することができます。
応神天皇即位が庚寅390年とすると、すでに応神天皇が生まれた後に三韓征伐が続いています。
神功皇后が実際に三韓征伐をした記事は、364年または391年のことを言っているのでしょう。

高句麗・百済への侵攻が書かれていないことから、三韓征伐というのは、新羅征伐です。
あるいは、馬韓・辰韓・弁韓の三韓を通称として使っていた可能性もあります。
この時代、朝鮮半島は町村レベルの小国が乱立し、正式な国名が確定せず、名称もあいまいだったということです。
馬韓地方、辰韓地方、弁韓地方というようなものだったと思われます。
朝鮮半島というものに、国家が成立するのは更に先のことになります。

武内宿禰とは

『日本書紀』は「武内宿禰」と書き、『古事記』は「建内宿禰」と書きます。
通説では、武内+宿禰、つまり、宿禰は尊称ですから、武内が姓です。
異説としては、武が姓で内宿禰が尊称というのもあります。つまり、武+内宿禰。
これは、『日本書紀』巻第十応神天皇の中に、武内宿禰が筑紫に遣わされ、その弟の甘美内宿禰の讒言で殺されそうになる逸話が記されていることからくるものです。
弟の甘美内宿禰も「内宿禰」であることがわかります。

武内宿禰は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇に仕えたと、『日本書紀』に記録があります。

氣比神宮

福井県敦賀市にある氣比神宮は、御祭神に武内宿禰の名が見えます。
敦賀市は応神天皇系の勢力基盤であり、その後の継体天皇もこの地を出自とすることが明らかです。

氣比神宮(けひじんぐう)
福井県敦賀市曙町にある式内社で名神大社です。
仲哀天皇八年、神功皇后と武内宿禰が気比神を祀らせました。
当地が応神天皇系の勢力基盤でした。
仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営みました。
境内社の角鹿神社は「敦賀」の地名発祥地と伝わります。

氣比神宮まとめ 筆者作成

高良大社

高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市御井町にある式内社(名神大社)で、筑後国一宮、国幣大社です。
高良玉垂命神社、高良玉垂宮とも呼ばれ、履中天皇時代に創建された古社です。
ご祭神は、
・正殿:高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
・左殿:八幡大神
・右殿:住吉大神
この高良玉垂命が武内宿禰ではないかという説が有力です。

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