天武天皇と壬申の乱 [Emperor Tenmu & Jinsin War]

天武天皇の出自

天武天皇は、日本の第40代天皇です。
『日本書紀』では天武天皇紀が上下の2つに分けて記載されるほど特別な存在としています。
天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇です。
天武天皇は、天智天皇の同母弟です。
天智天皇の女の菟野皇女を迎えて正妃とされました。
天智元年に立って東宮(皇太子)となられました。

斉明天皇紀において、斉明天皇(皇極天皇重祚)は、初め用明天皇の孫・高向王に嫁いで漢皇子を生まれ、後に、舒明天皇に嫁いで三人の御子(天智天皇・間人皇女・天武天皇)を生まれた、としています。
この記述を見る限り、斉明天皇と舒明天皇の間に生まれており、天武と天智は同母兄弟です。

大化の改新・乙巳の変(2)
大化の改新・乙巳の変(1)

天智・天武異父兄弟説

『日本書紀』で天武天皇は、天智天皇の同母弟となっています。
しかし、これについては異論が多く、下記のような異説が存在します。

  • 天智・天武非兄弟説:佐々克明氏、小林恵子氏
  • 天智・天武異父兄弟説:大和岩雄氏
  • 天武天皇非皇族説:小林恵子氏
天智天武異父兄弟説
筆者作成

天智・天武非兄弟説を主張する小林恵子氏は、「天武は高句麗から来た」という著書で、天武天皇を高句麗の将軍、淵蓋蘇文としています。
しかし、外国からやって来た将軍が、いきなり倭国にやって来て、天皇となることはほぼ不可能であると言えます。
やるのであれば、ヤマト王権を廃止して政権奪取でしょう。
政権を奪取するのは、ヤマト王権が弱体だった3、4世紀の頃であれば可能性が無いとは言えませんが、さすがに律令制度が定まってくる飛鳥時代には不可能でしょうし、そもそも『日本書紀』が成立しません。
また、高向王を高向玄理とみて、漢皇子を天武天皇に推定している著書もあります。
非皇族で渡来系の男系が豪族から支持されて天皇が擁立されるのか疑問です。

天智・天武異父兄弟説を主張する大和岩雄氏は、高向王の子、漢皇子を天武天皇とみています。
高向王は用明天皇の孫という見解でもあります。
そして、天武天皇は、天智の弟ではなく、天智の兄であったと見ています。
したがって、この説では、天武天皇は天智より年上だったことになります。

大和岩雄氏は、高向王との間に生まれた漢皇子は、大海人皇子の別名であったのを、『日本書紀』編者によって、大海人皇子と漢皇子は別人にさせられ、天智の実弟の大海人皇子が創作された、と推定しています。

壬申の乱が始まるまで

『日本書紀』で唯一上下に分かれて事績が記載されているのが天武紀です。
それも壬申の乱に絞って記載されているのが上巻で、壬申紀と言われています。

『日本書紀』によると、天智十年、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣、蘇我果安、巨勢人、紀大人を御史大夫に任命します。
大友皇子、蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人の6人が天智・大友グループです。
天智グループの結束を意味する人事です。
大友皇子は、内裏の織物の仏像の前で、5人を前に「心を同じくして、天皇の詔をうけたまわります。もし背反することがあれば天罰をうけるでしょう」と結束を誓いました。
『日本書紀』は、この大友グループ対天武天皇を対立軸として記述します。
そして、天智天皇が崩御します。
するとすかさず童謡が流行ります。
なにか災いが起きる前兆なのか、悪行が行われたのか、『日本書紀』は天智の死と童謡の関連性を強調しています。
一般的には、壬申の乱を予言する内容が童謡として表現されたと言われています。

天智四年10月17日、天智が病で重態のとき、蘇我臣安麻呂を遣いに出して東宮(大海人皇子)を寝所に引き入れます。
安麻呂は大海人皇子に「よく注意して答えるように」進言します。
天智が「皇位を東宮に譲りたい」と言うと、大海人皇子は隠された謀りがあると思い用心して答えます。
大海人皇子は、「元から多病でとても国家を保つことはできません。皇后に天下を託して大友皇子を皇太子に立てて、私は出家します」と辞退します。
その2日後に吉野宮に入ることになりました。
蘇我赤兄臣、中臣金連、蘇我果安らが見送り、宇治まで行き、引き返しました。
ある人が言いました。「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と。
10月20日に大海人皇子は、吉野につきました。

天武元年5月、朴井連雄君は大海人皇子に、美濃で武器を準備しているとの情報を奏上します。
6月22日、天皇は村国連男依、和珥部臣君手、身気君広に対し、聞くところによると、近江朝庭の重臣たちは私をなきものにしようと謀っている。そなた達は直ちに美濃国に行き、安八磨郡の湯沐令、多臣品治に機密を打ち明け、まずその地において兵を集めよ。さらに国司たちに知らせて、速やかに不破道を封鎖せよ。自分もすぐに出発する」といわれました。

このように、『日本書紀』では大友皇子グループが謀略を実行しようとしているから、やむを得ず天武も決起したという文脈になっています。

壬申の乱が勃発

そしてついに天皇は吉野宮をあとにして東国に向かわれます。
事が急であったので乗り物を準備することなく出発されます。
県犬養連大伴鞍の馬に乗り、草壁皇子・忍壁皇子、舍人朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友国・稚桜部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海が天武に従い出立しました。

その日のうちに菟田の吾城(奈良県宇陀市)に着きました。
大野(奈良県宇陀市室生区)で日没を迎えました。
夜中に隠郡(三重県名張市)に到着すると、隠駅家を焼き払いました。
その後急ぎ伊賀郡(三重県伊賀市)に至ると伊賀駅家を焼き払いました。
高市皇子が天皇に合流しました。
さらに伊賀から伊勢に入ります。
6月26日の朝、朝明郡(三重県)の迹太川のほとりで、天照大神を遥拝されました。
男依が駅馬に乗って駆けつけ、「美濃の軍勢3000人を集め不破の関を封鎖することができた」と報告しました。

一方の近江朝庭の対応は、どうだったでしょうか。
近江朝庭は、大海人皇子が東国に赴かれたことを聞いて、群臣は恐れをなし、京の民は騒がしくなりました。
逃げて東国に入るものや、山に逃げ隠れるものがいました。

このように天武の挙兵を近江側は恐れ慄き、逃げ惑う様子が描かれています。
いかに天武軍が強かったかを強調したものといえます。

大友皇子は、騎馬兵を集めて急襲しようという進言に従わず、韋那公磐鍬、書直薬、忍坂直大麻侶を東国に派遣しました。
さらに、飛鳥、筑紫、吉備に家臣を派遣し軍兵を徴収しました。

■大伴吹負が挙兵
大伴連馬来田と弟の吹負は、皇位を継がれるのは大海人皇子であろうと思いました。
そこで大伴馬来田はまず天皇に随い、大伴吹負だけは留まって数十人の同意者を得ることができました。

6月27日、天武の軍は、桑名から不破関に移動します。

大伴吹負はひそかに倭京留守司の坂上直熊毛と謀って「われは偽って高市皇子と名乗り、数十騎を率いて飛鳥寺の北の路から出て敵の本陣に向かう。そうすればそなた達はかならず寝返るのだぞ」と語りました。
まず秦造熊をふんどし姿で馬に乗せ、寺の西の敵陣の中へ大声で「高市皇子が不破から来られたぞ。軍勢がいっぱいだ」と叫ばせました。

留守司の高坂王と近江の募兵の使いの穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に、軍営を構えていました。
ただし、百足だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていましたが、秦造熊の叫ぶ声を聞いて、逃げ去りました。
大伴吹負は、数十騎を率いて不意に現れ、熊毛をはじめ多数の漢直の人たちは大伴吹負側に寝返りました。
天皇はこれを聞き、大いに喜び、大伴吹負を大和の将軍に任命しました。

■奈良の戦い
7月2日、天皇は紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始連菟を遣わして、数万の兵を率いて、伊勢の大山を越えて(鈴鹿越え)大和に向かわせました。
また、村国連男依、書首根摩呂、和珥部臣君手、胆香瓦臣安倍を遣わして、数万の兵を率いて不破から直接近江に入らせました。

近江方では、山部王、蘇我臣果安、巨勢比等に命じて、数万の兵を率いて不破を襲おうとし、犬上川のほとりに軍を進めました。
山部王は蘇我臣果安、巨勢比等によって殺されて混乱し、軍は進まみせんでした。
7月4日、吹負は乃楽山(奈良県境)で大野君果安と戦い、敗戦し命からがら逃走します。
7月5日、近江方の副将、田辺小隅は鹿深山(甲賀)を越えて倉歴に着きました。
田辺小隅は、敵味方の区別をつけるため兵士の合言葉に「金」を用いました。
7月6日、田辺小隅は、莿萩野(伊賀)に進み、多臣品治を急襲しますが、追撃され、逃走し再び現れませんでした。

■瀬田の戦い
7月7日、男依らは近江軍と息長の横河(米原市)で戦い勝利しました。
7月9日、さらに男依は近江の秦友足を鳥籠山で斬りました。
7月13日、男依らは安河(野洲川)の辺の戦いで大勝しました。
7月17日、栗太(滋賀県栗太郡)の軍を追撃します。
7月22日、男依らは瀬田(滋賀県瀬田)に到着しました。
大友皇子と群臣たちは瀬田橋の西に大きな陣営を構えていて、後方がみえないほどでした。
近江軍の将、智尊は先鋒として防戦にあたりましたが、捕らえられ斬られました。
大友皇子と左右大臣らは、辛うじて逃げました。
7月23日、男依らは近江軍の将、犬養連五十君と谷直塩手を粟津市で斬りました。
こうして大友皇子は逃げいる所もなくなり、山前(大津市)に身を隠して、自ら首をくくって亡くなりました。
左右の大臣や群臣は皆、逃げ散りました。

壬申の乱についての評価

『日本書紀』の壬申の乱は、天武天皇の事績を大きく見せるために過大に描かれていると言われています。
とはいえ、686年に天武天皇が崩御され、34年後の720年頃に完成したと見られることから、天武天皇の事績が過大に描かれたとみるのは疑問です。
合戦の様子は勇ましく描くのが古今東西どこも同じですから、壬申の乱がひどく潤色されたとみるのは無理があるでしょう。
大友皇子の側近たちが天武天皇を謀反人に仕立て上げたというストーリー展開も、特に大きな偽りがあるようにはみえません。
大友皇子が天皇に即位する際に、大海人皇子(後の天武天皇)が邪魔な存在であることは確かですし、天武としても殺られる前に武力蜂起するのは当然のことです。
先の天智天皇も、クーデターで政権を略奪した天皇です。
2大勢力が関ケ原で衝突した関ヶ原の戦いが戦国時代に発生したのと同じように、大海人皇子と大友皇子は時代的に衝突するのは必定だったのです。

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