大化の改新:乙巳の変 (1) [Reformation of Taika]

大化の改新
大化の改新 Wikipediaより引用

昭和の時代、教科書で習った大化の改新は、今の教科書でも大化の改新として記載されています。
ただし、現代の教科書では、”この段階でどのような具体的な改革が目指されたかは慎重な検討が必要である”との注釈が付けられています。

そして、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を惨殺する事件を「乙巳の変」といい、その後の一連の改革と分けて考えるようになってきました。

専横を極め悪事を行ってきた蘇我蝦夷・入鹿を倒し、「大化の改新」という大きな改革を推し進めた立役者として中大兄皇子と中臣鎌足がいた、というストーリーは見直されることになります。

蘇我氏の時代【過去記事】はこちら

The Taika Reform learned in textbooks in the Showa period is also described as the Taika Reform in today’s textbooks.
However, modern textbooks annotate that “what concrete reforms were aimed at at this stage needs careful consideration.”

The case in which Prince Naka-no-Ōe no Ōji and Nakatomi no Kamatari murdered Soga no Emishi and Iruka is called “Otomi no Hen”, and it has come to be considered separately from the subsequent reforms.

大化の改新の謎

大化の改新には多くの謎が指摘されています。

7世紀中期、中大兄皇子が長く即位しなかったことは、大きな謎の一つです。
中大兄皇子については、多くの疑問点が残ります。

そして中臣鎌足
中大兄皇子を補佐して大化の改新を成し遂げた人物です。
中臣鎌足、その出自は謎に包まれています。

そして、『日本書紀』の編者は藤原不比等です。
藤原不比等は、中臣鎌足の息子です。
中臣鎌足を良く見せて書くことはあっても、悪く書くことは無いと言っていいでしょう。
藤原氏の祖先と言っていい鎌足を持ち上げることは勝者の論理としてあり得ます。
天武天皇は686年、持統天皇は703年、藤原不比等は720年8月に亡くなっています。
『日本書紀』は、720年5月に成立したとみられます。
藤原不比等は『日本書紀』完成を見届けるように亡くなります。
乙巳の変は、645年です。
書紀編纂時、75年前の出来事を書いているということは、現代でいえば第二次世界大戦を書くのと同じ時代感です。
焚書のため資料が残っていなかったとはいえ、ある程度史実として語り継がれたことが『日本書紀』に反映されているはずです。
つまり藤原氏に都合が悪い事以外は史実だったはずです。
不都合な真実は隠すことが一番確かです。

中大兄皇子(天智天皇)

中大兄皇子(後の天智天皇)の幼名は、葛城王子です。
葛城の地は蘇我氏の本貫ですので、中大兄皇子は蘇我氏に育てられた可能性があります。
なぜ蘇我氏に育てられたのに蘇我氏を襲ったのか、謎になります。
乙巳の変では、中大兄皇子が直接、蘇我入鹿を斬りつけます。
高貴な皇子がそのような謀略に直接手を下すのか大いに疑問が残ります。
つまり、創作であるということです。
中大兄皇子はこの場にいなかったか、影で見ていただけでしょう。

そうでなければ、中大兄皇子が皇太子に見合う地位ではなかった可能性が出てきます。
中大兄皇子については、皇太子についていなかったのではないかという説があります。

『万葉集』の中大兄皇子の記載は、一貫して中大兄であり、皇子がつきません。
意識的としか思えない、なんらかの意図があっての表現です。
皇太子に就かないで天皇に即位したのでしょうか。
なんらかの謎が隠されていると言えるでしょう。

中臣鎌足(鎌子)

大化の改新で中大兄皇子を補佐したのが中臣鎌足(鎌子)です。
中臣鎌足は、中大兄皇子とともに乙巳の変を成し遂げ、大化の改新を実行したように見えますが、ほとんど業績がありません。
その出自も謎に包まれています。

亡くなる直前に大織冠を贈られ藤原姓を授けられるのも謎です。
『日本書紀』で藤原氏の祖先として祀り上げられていますが、それ以外に証拠はありません。
大和朝廷創世期ならば祖先の詳細が不明なのもわかりますが、飛鳥時代に事績がないのは隠された可能性があります。

なぜ女帝がこの頃に頻発するのか

『日本書紀』を参考に筆者作成

最初の女性天皇は、推古天皇です。
その後、皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)と立て続けに女帝が即位しています。
6世紀から8世紀の間で10代8人が女帝です。
なぜ、飛鳥時代に女帝が頻発するのでしょうか。
歴代の女性天皇は、全て男系天皇であり、寡婦(夫の天皇と死別)か未婚です。

【仮説】女帝が我が子、孫などを即位させるために中継ぎとして自らの希望を叶えようと即位した

  • 推古天皇:甥の厩戸王を摂政にするために即位
  • 皇極天皇:軽皇子(孝徳天皇)を天皇に立てるため即位
  • 斉明天皇:有間皇子を天皇に立てるため自ら即位
  • 持統天皇:草壁皇子を天皇に立てるため即位
  • 元明天皇:首皇子(聖武天皇)を天皇に立てるため即位
  • 元正天皇:首皇子(聖武天皇)を天皇に立てるため即位
  • 孝謙天皇:道祖王(天武天皇の孫)を天皇に立てるため即位
  • 称徳天皇:ふさわしい皇太子が現れるまでの中継ぎとして即位

これらを見ると、中継ぎとしてだけではなく、対象となる御子の即位を目指す、または、排除するために即位したと考えられます。

女帝が乱立した背景は、皇族を擁立する側であった豪族間の争いが激しく、権力闘争として皇族を巻き込んだ代理紛争が頻発したと推定されます。

そして、ほとんどの女帝の裏に鎌足、不比等など藤原氏が見え隠れしています。

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