蘇我氏の時代【Soga clan】

蘇我氏の時代
筆者撮影素材

蘇我氏は飛鳥時代を中心に興隆した臣を姓とする氏族です。
『古事記』や『日本書紀』では、武内宿禰を蘇我氏の祖としています。

聖徳太子・厩戸皇子の記事

The Soga clan was one of the most powerful aristocratic kin groups of the Asuka period of the early Japanese state—the Yamato polity—and played a major role in the spread of Buddhism.

筆者作成

飛鳥時代の氏姓制度

飛鳥時代になると、ヤマト政権の豪族の身分秩序として氏姓制度が作られていきます。
「臣」「連」は、ヤマト政権で作られた「姓」の一つで、高位の豪族が保持した称号です。
「氏」が豪族のグループ名を示していたのに対し、「姓」は、ヤマト政権内での豪族の地位をあらわす称号といえます。
『日本書紀』では、連姓の多くは皇室以外の神々の子孫を表しています。
『日本書紀』では、臣姓の多くを継体天皇以前の天皇から別れ出た氏族としています。
また、葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏など有力氏族は、系譜上武内宿禰を共通の祖としています。

「臣」の姓を称した氏族には、蘇我氏・巨勢氏・紀氏・平群氏・葛城氏・波多氏・阿部氏・穂積氏等がいます。
「連」の姓を称した氏族には、物部氏・大伴氏・中臣氏・土師氏・弓削氏・尾張氏等がいます。
「臣」の姓は、もとは皇室に従属し、ともにヤマト政権を形成した畿内周辺の豪族に与えられたものと考えられています。

大王の補佐として執政を行ったのが「大臣」です。
武内宿禰が正史で最初の大臣と見なされています。
その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など)が大臣の地位についています。

蘇我氏と物部氏の対立

インドで始まった仏教は、中国・百済経由で日本に伝わり、蘇我氏が仏教を広めようと目論みます。
倭国にとってはじめての外来宗教です。
仏教をめぐり、崇仏派と廃仏派に分かれて対立します。
崇仏派の代表が蘇我氏で廃仏派の代表が物部氏と中臣氏です。
当時、崇仏派が開明的で改革的な考えであり、廃仏派が守旧的な考えでした。
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、権力を握った藤原氏は、蘇我氏は守旧的で悪人である、というイメージを『日本書紀』を通して浸透させます。

前回の記事「聖徳太子」で書いたとおり、丁未の乱で蘇我氏と物部氏は対立し、事実上物部氏が衰退します。

そして、蘇我系皇族で崇仏派の代表である聖徳太子が摂政として君臨します。
大臣であった蘇我氏は天皇の外戚として権力を掌握します。
蘇我馬子の娘であった河上娘は崇峻天皇の妃となり、法提郎女は舒明天皇の妃に、刀自古郎女は聖徳太子の妃になるなど、外戚となって権力を握りました。

蘇我氏の出自

蘇我氏の出自は謎に包まれています。
そのため、いろいろな説が展開されています。
代表的なのが蘇我氏渡来人説です。
代表的なのが門脇禎二氏著作『蘇我蝦夷・入鹿』の中で渡来人説を主張しています。

蘇我氏は渡来人なのか

そもそも渡来人とは外国からやってきた人という意味であるのなら、ここでいう百済、新羅が外国かというと、完全な外国ではないと私は思います。
祖先を日本人にもち、古くから日本人が土着して住んでいた地域にできた百済、新羅ですので、そこからやって来た人を渡来人といえるのかどうか、という問題があります。
近現代のように言葉が違い、文化も違う国となりましたが、古代は通訳を入れず会話が成立し、文化も同じであった可能性が高いのです。
このような解釈を前提に、考える必要があります。

蘇我の系列に蘇我満智がいます。
門脇氏は、蘇我満智は百済の木満致と同一人物であると主張します。
しかし、蘇我満智は5世紀初頭の人物であり、百済の木満致は5世紀末の人です。
時代が違います。
ただし、門脇氏は、蘇我満智の記述が創作だとして、同時代に拘ります。

さらに、蘇我氏の系図に高麗という名前が見えます。
高麗とは高句麗のことであり、百済・新羅の敵対国です。
本当に百済からやって来た渡来人というなら、敵対国の名前をつけることはないでしょう。

門脇禎二氏が著作を現したのは昭和60年(1985年)であり、まだ戦後の自虐史観が色濃い時代ですので、中国・朝鮮半島から日本に先進文化がもたらされたという主張が流行するのも仕方がなかったでしょう。
現在、蘇我氏渡来人説は、ほぼ否定されています。

蘇我氏は正統派氏族だった

蘇我氏渡来人説が完全否定されるとそれに代わって、新たな学説が登場します。
大化の改新は『日本書紀』編者による潤色が強く、乙巳の変というクーデターが起きたに過ぎないという説です。
勝者の論理で史実が塗り替えられるのは、いつの時代にもどこの国でも起こりうることでした。
『日本書紀』制作当時の権力者は藤原不比等です。
藤原不比等は中臣鎌足の子供で、大化の改新を中大兄皇子(天智天皇)とともに成し遂げた鎌足の子です。
『日本書紀』編者であるだけではなく、その後中世まで藤原氏の権威は継承されました。
最高権力者として藤原の意向が反映され、藤原に都合の悪いことは抹殺されるか変更されるのは当然のことです。
大化の改新で殺害された蘇我入鹿を悪者として描くことは必要なことだったでしょう。
新興勢力の藤原氏に対する権威を高めるため、古来から続く豪族で藤原氏と敵対していた蘇我氏の身分を貶めることをやったのです。

このように、藤原氏による勝者の理論によって『日本書紀』で出自が隠された蘇我氏は、逆に考えると、正統派氏族であったことがわかります。
しかし、蘇我氏の出自について新たな証拠が出ない限り、史実が明らかになることは無いでしょう。

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