聖徳太子 厩戸皇子

聖徳太子
聖徳太子 Wikipediaより引用

聖徳太子の時代

聖徳太子の時代は推古天皇の摂政が中心です。
欽明天皇から大化の改新(乙巳の変)の645年までを飛鳥時代といいます。
その中心が聖徳太子が摂政として政治を行った推古朝の時代です。

『日本書紀』によると、推古天皇は、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を立てて、皇太子とされ国政をすべて任されました。
聖徳太子は、父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女の第二子です。
厩の戸にあたられた拍子に難なく出産したことから厩戸皇子と呼ばれます。
また、誕生日が甲午の午年(574年)だったことも名前に影響しました。
聖徳太子は、宮殿の南の上宮に住んだことからその名を称えて、上宮厩戸豊聡耳皇太子と言われました。
またの名は、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と言われます。

『古事記』には推古天皇の記述はありますが、聖徳太子については用明天皇の項に父・用明天皇と母・間人穴太部王の御子が上宮之厩戸豊聡耳命(聖徳太子)であるとあります。
『古事記』に聖徳太子の事績はありませんので、他の文献を参考にすることになります。
『上宮聖徳法王帝説』や『懐風藻』・『先代旧事本紀』などに聖徳太子の記述があります。

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聖徳太子の生い立ち

574年、聖徳太子は父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女の間で生まれました。
厩戸豊聡耳皇子という名前も、聖徳太子が聡明であり、すぐれた裁定能力を備えていたことにちなみます。
聖徳太子の名は、法起寺の塔婆の露盤銘に、「上宮太子聖徳皇」と記載されていたのが初見です。
さらに、『懐風藻』に、「聖徳太子に逮び、爵を設け官を分かち、肇めて礼儀を制す云々」とあります。
上宮という名前がついているのは、用明天皇の宮の南の上宮に住んでいたからです。

推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政として政務に当たることになります。
この摂政は、制度化された官職の意義はなく、たんなる天皇を補佐する執務者という位置づけを表しているに過ぎません。

聖徳太子と蘇我氏

筆者作成

上記のスライドを見ても分かる通り、聖徳太子と蘇我氏は深いつながりがあります。
まさに、「華麗なる一族」です。
蘇我稲目の娘が2人欽明天皇の妃となっています。
さらに、蘇我稲目の子である蘇我馬子の娘も崇峻天皇の妃となっています。
蘇我系の天皇が天智天皇、天武天皇まで続いていることがわかります。
舒明天皇の皇統が現代の皇室につながります。

蘇我馬子は、敏達天皇から推古天皇まで、54年にわたり大臣として蘇我氏の全盛時代を築きました。
奈良県明日香村にある石舞台古墳は、巨大な石を用いた横穴式石室が露出していて、埋葬者としては蘇我馬子が有力視されています。

丁未の乱

崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋との宗教的対立は、用明天皇と欽明天皇の皇子である穴穂部皇子を巻き込んだ皇位継承問題に発展します。
用明天皇崩御の1か月後、蘇我馬子は炊屋姫(推古天皇)を奉じて、穴穂部皇子を討伐させます。
そして、諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋を討伐しようと謀ります。
泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子・紀男麻呂・巨勢臣平良夫・膳臣賀陀夫・葛城臣鳥那羅らが、軍勢を率いて物部守屋を討ち取りました。
厩戸皇子の名もありますが、14歳という年齢を考えても、トップリーダーとして参戦したのではなく、軍勢の一員だったようです。

丁未の乱が収まると、摂津国に四天王寺、法興寺(飛鳥寺)を造りました。

丁未の乱により物部守屋一派が消え、物部氏の力が弱まり、蘇我氏の専制が始まります。

冠位十二階の制

603年、聖徳太子によって冠位十二階の制が定められました。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階です。
階ごとにそれぞれきまった色の絁を縫い付け、元日にはさらに髻華という髪飾りを挿しました。
位階に相当する冠と衣服の着用が豪族に義務付けられました。
ただし、蘇我馬子はこの冠位十二階の制の枠外にいました。
蘇我馬子は、冠位を超える存在だったのです。
冠位十二階の制は、中国、朝鮮半島にあった制度を元に、日本オリジナルに応用したものと言われています。

憲法十七条

憲法十七条は、十七条の憲法とも言われます。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇12年(604年)に皇太子は自ら作った憲法十七條を発表しました、と記述されています。
『日本書紀』には十七条すべてが記載されています。

憲法十七条は、現代の日本にも大いに適用できる内容となっています。

  1. 和を尊重し、争わないことを旨としなさい。上下の者がお互い睦まじく、物事を論じれば、自然と道理が通じ合い何事も成就できる。
  2. 篤く三宝(仏・法・僧)を敬いなさい。仏教は四生が最終的に拠り所とするものであり、究極の拠り所である。
  3. 詔を受けたら必ず謹んで従え。君を天とし臣は地である。詔は必ず謹んで受けなくてはならないし、そうしなければ自ら滅亡をまねく。
  4. 群卿・百寮は、礼をもって根本としなさい。民を治める根本は礼にある。
  5. 贅沢な食事を止め、財物への欲望を捨てて、訴訟を公平に裁け。
  6. 悪を懲らしめ善を勧めることは、古くからの良い教えである。
  7. 人にはそれぞれ任務があるのであり、それを適切に担い、濫用してはいけない。
  8. 群卿・百寮は、朝早く出仕し遅く退出しろ。
  9. 信は道着の根本である。何事にも真心がなくてはならないし、物事の善悪や成否は信にある。
  10. 心の怒りを絶ち、怒りを棄て、人と考えが違うからといって怒らないようにせよ。
  11. 官人の功績と過失を明確に調べて、賞罰は必ず正当に行わねばならない。
  12. 国司・国造は、百姓から徴税してはならない。
  13. 各々の官職に任じられた者は、任務の内容を把握しなさい。
  14. 群卿・百寮は、羨み妬みの心を持ってはいけない。
  15. 私心を捨てて公につくすのは、臣たるものの道である。
  16. 時をもって民に賦役を課すことは、古き良き教えである。
  17. 物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に論じ合うようにしなくてはならない。

遣隋使

『日本書紀』によると、607年(推古15年)に小野妹子が大唐(隋)に派遣され、通訳として鞍作福利も同行しました。
『日本書紀』に書かれていない遣隋使は600年に行われており、『隋書』倭国伝に書かれた第一回遣隋使の派遣です。
607年の遣隋使は第二回となります。
日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』倭国伝に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云々)と書かれていました。
これを見た隋の煬帝は立腹し、外交事務担当官である鴻臚卿に「蕃夷の書に無礼なるものあり、また以て聞するなかれ」と命じたといいます。

小野妹子の帰国に際し、煬帝は裴世清を送使として日本に随行させました。
この時、小野妹子は煬帝から授かった書を百済人に掠め取られたと奏上します。
群臣等はこれを流刑に処すべきとしましたが、天皇は大唐の客人がいる手前、軽々しく処罰してはいけないと、小野妹子を赦免されました。
裴世清の帰国に際し、小野妹子が再度派遣されました。
この時は多くの留学生が随行し、その中に学生であった高向玄理、恵明、倭漢福因、大国、学問僧であった恵隠、南淵請安、僧旻、広済らがいて彼らは隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に倭国の国政に貢献することになります。

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