明治維新は嘘か真か?

明治維新は嘘か真か?
明治維新、実は大きな嘘だったという説があります。

江戸時代に鎖国していたのは嘘?

近衛文麿 昭和の藤原氏

  • 戊辰戦争は、暴力革命ではないか?
  • それとも、暴力革命でなくとも、ただのクーデターではないのか?
  • いや、そうではない、国家を守るという意味では朝廷、幕府ともに一致していたのか?
  • 14、5歳の明治天皇を担いで悪さをしたのが薩長連合ということではないのか?

明治維新の否定、つまり歴史の否定は、新共産主義といわれるフランクフルト学派のやり方で、隣の国が信仰するイデオロギーです。
慎重に検討する必要があります。

先ず、教科書で習う明治維新から。
例えば、高校日本史Bの教科書から明治維新に関する記述です。

幕府の崩壊と新政府の成立を、同時代の人びとは、政治の一新という意味で御一新といい、また中国の古語を当てて維新とも呼んだ。
しかし、歴史用語としては、黒船来航に始まり、廃藩置県あるいは西南戦争に至る一連の激動の時代を総称して、明治維新と呼んでいる。

詳説日本史B 改訂版 山川出版社 2016(平成28)年3月18日文部科学省検定済

当時、明治維新と呼ばれていたかどうかはすこし曖昧ですが、維新とか御一新ということばで呼ばれていたことは確かなようです。
そして、後に歴史用語として明治維新という言葉が広がったということも確かなようです。
しかし、問題なのは明治維新といわれるほど大きな変革に、どのような事実があったのかを確かめることです。
そこに嘘や大嘘がなかったのか、調べることにします。

南北戦争とペリー来航

1849年、ロスチャイルドのアメリカ代理人でユダヤ人のオーガスト・ベルモントは、マシュー・カルブレイス・ペリーの娘であるキャロライン・スライデル・ペリーと結婚しました。
そして、マシュー・カルブレイス・ペリーは 、アメリカ海軍の船長兼提督であり、後に 1853 年に「黒船」による日本の貿易開港の遠征で有名になったあのペリー提督です。

ペリー提督
マシュー・カルブレイス・ペリー
Matthew Calbraith Perry Wikipedia
オーガスト・ベルモント Wikipedia

オーガスト・ベルモントは、南北戦争では北軍を支援していた民主党のスティーブン・ダグラスに資金を提供し、表向きは南軍には武器や資金を融通しないようにしたと言われています。

1861年から1865年まで続いた南北戦争は、両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人を含めると70~90万人の命を奪いました。
南と北に分かれて戦われた対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制確立の過程で起きた戦争の一環でした。
この南北戦争の直前に、アメリカは日本へ黒船を派遣しており、この戦争の波は東アジアに達しようとしていました。
特に南軍を中心に利用されていた小銃類が大量に日本に輸入され、戊辰戦争で兵器として使われています。

ヨーロッパではナポレオン戦争、クリミア戦争、アジアではアヘン戦争、戊辰戦争、アメリカでは南北戦争、これらが同時代、約50年の間に起きたのは決して偶然ではないはずです。

ベルモントはアメリカの名門・ペリー家と姻戚関係を結ぶことでアメリカのビジネスで成功し大富豪へと成り上がりました。
幕末の動乱を仕掛けたのも、薩長を支援したのも、裏にロスチャイルド家がいたことになります。

ペリー来航で日本へ開港を要求したものの、南北戦争で疲弊したアメリカは、日本へ介入する余裕はなく、国内問題を優先せざるを得なかったため、日本ではイギリスとフランスによる代理戦争となっていきました。

尊王攘夷の矛盾

日本は長年の鎖国政策により、4口(松前・出島・対馬・琉球)以外の貿易は認められていませんでした。
しかし、欧米列強は積極的に海外へ進出すると、1840年、アヘン戦争で清はイギリスに敗れ、香港島を奪われます。
列強は日本列島にも現れ、各地で摩擦が発生し、徳川幕府はその対処に悩まされることになります。

このような欧米諸国に対応するために、外国人を打ち払って日本を欧米諸国から守る必要がある、という考えが広まりました。
こうした外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想を攘夷論といいました。

尊王は、鎌倉時代、室町時代に、天皇を王とする思想から出てきた言葉ですが、江戸初期は儒学、朱子学の発達により、中華思想の王である徳川が統治するという意味になり、幕末になると、水戸学が影響し尊皇として天皇中心の皇国主義として尊王攘夷論が発達します。
そして、尊王攘夷は、仏教排斥を唱える廃仏毀釈と相まって語られることになっていきます。

イデオロギー的な廃仏毀釈運動はなんであったのか?

廃仏毀釈は、慶応四年(1868年)に発せられた「神仏分離令」や、明治三年(1870年)に出された詔書「大教宣布」が発端となりました。

当時、新政府には、統一的な権威が必要であり、国家神道として、天皇を祀り上げるようになりました。
西欧的イデオロギーが入ってきて、自然国家的な天皇がいて臣民がいるという自然国家意識に対抗する精神が国家神道だとされました。
そして、GHQにより戦後作られた言葉であるのが国家神道であり、GHQにより国家神道が解体されていきました。
廃仏毀釈運動から150年たった現代においても、仏教の慈悲の心は回復していません。

蛤御門の変で御所が爆破されたのは尊王攘夷なのか。

水戸藩士、長州藩士らによる外国人殺傷は逆効果となりました。
明治時代はニコニコしていた日本人ではなくなりました。
しかし、薩英戦争や欧州密航で流れが変わります。
尊王攘夷が180度方針転換、開国し欧米列強に対抗しなければならないとする開国派そして、倒幕派へと、ころっと変わりました。
日本人の精神的な思いとして、幕末の志士たちが本当に尊王の思想を持っていたのでしょうか?
権力や階級制度への不満分子によるクーデターではないのでしょうか?
幕末それほど欧米から害を被らなかったのは江戸の文明があったからです。
工芸製品の秀逸さがあったから手荒なことをしなかったのです。
欧米列強が、初めからへりくだってきていたのは江戸の素晴らしさがあったから。

すると土地の人民は異人を珍しがって海岸に一杯群がった。
其の内には歓迎の意を表して、水や結構な桃などを気軽に持って来て呉れるのもあった。
近くには日本の警護船がニ三艘泊まっていたが、船中の役人は吾々が来たのを喜んで歓迎した。
面して二三服の吸付煙草が両国人を結び付ける縁となって其の間に相互に親密の情が芽したのである。
米国の士官は日本人の厚意に報いる為にピストルを出して発射して見せた。
彼等は非常に吃驚はしたが、面白がる事も非常であった。
斯うして愉快に全然打解けて交際して見ると日本人は応対も至って優しく社交的である。

ペルリ提督日本遠征記

このように、開国前、日本人は「異人」を恐れることはありませんでした。

「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」

有名な狂歌が教科書で紹介されていますが、本当に日本は外国人を恐れていたのでしょうか?
文明開化後、新政府の権威を示すため、外敵を対立軸とする、作られた構図だったのではないか?
そんな疑問が湧いてきます。

歴史は権力者によって作られていきます。

越前藩主・松平春嶽(松平慶永)/薩摩藩主・島津斉彬/土佐藩主・山内容堂/宇和島藩主・伊達宗城、幕末の四賢侯と呼ばれたこれら有力大名は、ペリー来航時、攘夷を主張していましたが、その後は公武合体、開国派に転じていました。
そして、日米修好通商条約の締結において、大名等が条約に賛成し天皇に最終的承認を求めますが、孝明天皇が条約承認を拒否します。
これは通説とは反対ではないでしょうか。
通説では、条約に反対する諸藩の大名と勤王志士たちの説得によって条約は拒否された、となっています。
ここにも、知ってはならない明治維新の謎が潜んでいるのかもしれません。

これに対し、尊王攘夷派の先鋒は長州藩でした。
長州藩は、当初「航海遠略策」といわれる開国派でした。
航海遠略策は、不平等条約を破棄させる「破約攘夷」ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする政策ですが、安政の大獄で挫折します。
1862年、長州藩は航海遠略策を捨て、尊王攘夷に路線変更、破約攘夷を建言しました。
そして、この頃、京都では天誅と称するテロが頻発しており、尊王攘夷運動が激しさを増していきました。

1863年の下関戦争で、長州藩は馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施しました。
馬関海峡の砲台をアメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から積極的に技術を導入し、軍備軍制を近代化するに至ります。

元々開国派の薩摩藩は1863年、薩英戦争が起きますが、イギリスの軍事力を目の当たりにし、さらなる軍制改革による開国を推し進め、イギリスに対して軍艦購入の申込みをするほどでした。

八月十八日の政変

幕末の公武合体派によるクーデター「文久三年八月十八日の政変」が勃発します。

長州藩および攘夷激派勢力は少壮公家と結んで攘夷を幕府に迫り、文久三年(1868年)8月、大和行幸、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画しました。
しかし、公武合体派の兵力は御所九門を固め、その中で密議がなされ、中川宮のちの久邇宮朝彦親王、前関白近衛忠煕、近衛忠房、右大臣二条斉敬、京都守護職松平容保らは8月18日未明、会津・薩摩藩兵の警備する宮廷内において攘夷親征、大和行幸の延期を決定しました。
同時に長州藩の堺町御門の警備担当の任を解き、三条実美、三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人は禁足を破り、長州勢とともに長州へと下りました(七卿落)。
京都守護職は8月19日から新選組に市中を巡回させ、京都町奉行には宿泊者の調査を厳しく行わせました。
また、因州・備前・阿波・米沢など13藩が輪番で市中警備に当たり、しばらくの間、京都は幕府側ないし公武合体派の握るところとなった。

八月十八日の政変で公武合体派がクーデターで暴力的に権力を掌握すると、政権の内外で喧嘩争いが発生するのは必定です。
それは、尊王攘夷論という高尚で観念的な議論を超越した、内輪もめに近い権力闘争であり混乱状態となっていきました。

元治元年(1864年)7月、禁門の変、いわゆる蛤御門の変が起きます。
追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を天皇に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、長州軍は強引に入京を試み、御所の西にあたる京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突しました。
薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより長州藩兵は撃退され、大火「どんどん焼け」により京都市街は延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失する惨事を招く結果となりました。
御所に向かって火を放つなどの行為により、長州藩は朝敵とみなされ、第一次長州征伐へとつながる事件となりました。

尊王攘夷というのが名ばかりであり、攘夷撃破勢力というものがただのテロリストであることの現れといっていい事件でした。

グローバル化の流れ

ロスチャイルド家はネイサンのそれぞれの息子たち5人が各国に散らばり、それらが一つにまとまり、早馬や伝書鳩などを利用して迅速な情報伝達網を作り上げていきました。
ネイサンは、イギリスで大恐慌が起きると、イングランド銀行に狙いを定め、株式や通貨発行権を取得し、支配していきます。
さらに、ネイサンは国債による資金調達を普及させ、世界的な債券市場を形成していきました。
その勢いは、1820年頃、当時の新聞に「ヨーロッパ金融市場の支配者」と書かれるほどでした。
その後、ロスチャイルド家は、イングランド銀行をモデルとして各国に中央銀行を設立していきます。

イギリスはロンドンロスチャイルド家と依存関係にあり、アメリカはロスチャイルド家の代理人・オーガスト・ベルモントを通じて国債を引き受けてもらうなど、互恵関係にありました。

安政五年(1858年)の日米修好通商条約の当初、輸出税は一律5%、輸入税は1類(金銀)は無税・2類(船舶用品・食料・石炭)は5%・3類(酒類)35%・4類(その他)20%でした。

日本が関税自主権を失ったのは慶応二年(1866年)の改税約書です。
長州藩による下関戦争の敗戦によって、徳川幕府は300万ドルの賠償金を課せられました。
しかし、イギリス公使のパークスは賠償金請求を利用して徳川政権に軍事的な圧力をかけ、賠償金の減免と引き換えに、天皇による条約勅許と兵庫開港と関税率削減を要求します。
天皇が兵庫開港の勅許を認めなかったため、徳川幕府は賠償金の支払いと関税率削減の要求をのまざるを得なくなりました。

したたかなイギリスのバックにはロスチャイルド家がいます。
想像になりますが、ロスチャイルド家の指示で関税率削減を目論んだのかもしれません。

武器商人・坂本龍馬

さて、ロスチャイルド傘下といわれるユダヤ商人・ウィリアム・ケズウィックが長州・薩摩藩を支援します。
安政六年(1859年)、日米修好通商条約締結後に開港した横浜にジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)を設立します。
ジャーディン・マセソン商会は、東インド会社が前身のイギリス系企業グループです。
また、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、伊藤博文の長州五傑のイギリス秘密渡航の手引をしています。

もう一人、明治維新に大きな影響を及ぼしたのが、トーマス・ブレーク・グラバーです。
グラバー邸や、坂本龍馬の海援隊と取り引きした人物としても有名です。
グラバーは、1859年に上海へ渡りジャーディン・マセソン商会に入社し、安政六年(1859年)8月、開港後まもない長崎に移り、2年後にはジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立しました。
グラバーは、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売する武器商人でした。
坂本龍馬の亀山社中とも取引を行いました。
また、薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしています。

つまり、長州藩士、薩摩藩士ともにイギリス渡航費用を支援されており、両藩ともにイギリスの息がかかっているということがわかります。
これに対し徳川家にはフランスが支援、資金力の差、当時の国力の差異が江戸幕府滅亡へとつながったともいえます。

「薩長が戦争に勝てたのは俺がいたからだ」後にグラバーが語ったと残っています。

坂本龍馬
坂本龍馬 Wikipedia
グラバー(右)と岩崎弥之助 Wikipedia

大政奉還・王政復古・鳥羽・伏見の戦い

続いて、慶応二年(1866年)12月、孝明天皇が急逝されます。
死因は天然痘説、ヒ素中毒説(暗殺説)がありますが、事実が判明することはないでしょう。
あまりにも急であり、暗殺が起きてもおかしくない突然の出来事でした。
暗殺の首謀者は岩倉具視であるとも噂されています。

慶応三年(1867年)10月15日、徳川慶喜は「大政奉還建白書」を朝廷に提出、朝議で受理が決定され、その勅許の沙汰書が徳川慶喜に授けられました。
ここに大政奉還がなされたのでした。

これに対して討幕派の薩摩藩・長州藩は、大政奉還によって徳川幕府が消滅されては革命にならないと考え、徳川幕府を血祭りにあげ武力討伐をしなければ権力を奪えないと考えていました。
彼らにとって討幕は必須のアイテムであり、徳川家の絶大な影響力が残る事があってはなりません。
徳川家康が豊臣政権を倒し、天下統一を成し遂げたのと同じ理論です。

「王政復古」の大号令により、徳川の官位剥奪と800万石に及ぶ徳川家の領地を朝廷に返納させることが決定されました。
これは岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允というごく限られた人物によるクーデターです。
慶応三年(1868年)12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩の兵により御所の九門が封鎖され、朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。
そして、岩倉具視らは、明治天皇出御のうえ御所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定しました。

旧幕府軍は大坂に集まり、総勢1万5千人、慶喜は急速に抗戦へと傾いて行き、大坂城に入り交戦を決意します。
会津と新撰組の兵が伏見街道より京に進軍し、桑名藩と京都見回り組は伏見街道を進み、鳥羽街道より進撃しました。
これに対し、西郷隆盛は伊地知正治を総監として薩摩兵二千をもって鳥羽街道を守っていました。
旧幕府軍は大坂城を本営とし、新政府軍は東寺を本営としました。

薩摩藩・西郷隆盛らは、江戸市内を攪乱して旧幕府側を挑発し、これに激怒した会津藩、桑名藩を主力とする旧幕府軍は、大坂城を出発、京都南郊の鳥羽、伏見から京都へ進撃しようとしました。
慶応四(1868年)1月3日、旧幕府側が薩摩軍に向かって銃撃したことから戦いがはじまりました。

一方、徳川慶喜には初めから戦意がなく、鳥羽・伏見の戦いが始まっても、一度も大坂城を出ることはありませんでした。
人数では旧幕府軍の兵力が勝っていましたが、軍備力で劣勢だったために敗退し、慶喜は江戸へ敗走しました。
その後、徳川追討の軍事行動が起されることとなり、ここに戊辰戦争が始まりました。

戊辰戦争

戊辰戦争は、暴力革命ではないか?
それとも、反乱分子によるクーデター?
そうではない、国家を守るという意味では朝廷、幕府ともに一致していた?

戊辰戦争において、フランスは旧幕府側を支援し、イギリスのトーマス・グラバーや欧米の武器商人は、新政府・旧幕府の双方に武器を売却しますが、当然イギリスは新政府を全面支援していました。

私は天皇に、フランスの利益に敵対的な(南部の大名らの)隊に、アメリカ人やイギリス人の退役軍人や休暇中の軍人が無数にいることを伝えねばならない。我々の敵中に西洋の指揮者がいるとなれば、政治的見地から見て私の功績は危機にあろうが、この戦闘状況報告を止められる者はない。間違いなく陛下も関心を持たれよう。
— ナポレオン3世あての手紙

ジュール・ブリュネ Wikipedia
ジュール・ブリュネのナポレオン3世への報告によれば、米英軍人が新政府軍側で参戦していた。 Wikipedia

このナポレオン3世宛の手紙や絵画にあるように、アメリカやイギリスの軍人が戦闘にも参加していたのは確実です。
イギリスが資金援助し、兵備を整え、軍隊までも指揮した新政府軍が勝利したのも必然だったのです。

■薩摩御用盗の出現

旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発するため、薩摩藩士・西郷隆盛らは江戸において、はじめ乾が土佐藩邸に匿い、のち薩土討幕の密約に基づき薩摩藩邸に移管していた中村勇吉、相楽総三ら勤王派浪士達を用い、出流山をはじめとする関東各地での挙兵や江戸の撹乱作戦を開始した。毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入った。日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして、必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ。
江戸の市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。

薩摩御用盗の出現 Wikipedia

西郷隆盛は、島津斉彬に「御庭方役」に任命され、藩から資金を提供され、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう命じられていて、その後、他藩からの情報入手、扇動工作、破壊活動を行うように変化していきました。
西郷の写真が残っていないのも、これらの活動に影響があるから自らの顔を隠した、との考えだったからではないかと推測できます。

小松帯刀
小松帯刀 Wikipedia

さらに、そしてもう一人、小松帯刀[たてわき](小松清廉)[きよかど]は、明治維新、薩長同盟の立役者でしたが、残念なことに明治三年(1870年)、34歳の若さで病没しています。
西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬が有名ですが、小松帯刀がいなければ薩長同盟は成立していなかった、というほどの人物でした。

小松帯刀は、世界最強のイギリスから兵器・航海術・新型機械・殖産興業等について英国の技術者を鹿児島に呼び、藩士に西洋の技術を学ばせました。
そして、五代友厚等の藩士をイギリスの留学させました。

坂本龍馬が行ったとされる薩長同盟やイギリスとの交流などは、小松帯刀の功績でした。
逆に、坂本龍馬の亀山社中の設立を支援するなど、坂本を育てたのも小松でした。
小松帯刀が坂本を影で操ったとも言えるのです。

島津斉彬や久光の先見の明が薩摩を新政府へ導いたともいえるでしょう。

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