水田稲作の拡散

『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎を参考に当サイトで加工

水田稲作の伝播

水田稲作は九州北部から外へ出るのにゆっくりと伝播したと見られます。

これまで水田稲作は九州北部から西日本各地に、瞬く間に広がったと考えられていた。
こうした考え方は意外と古く、戦前から存在したが、その理由は二つある。
第一は九州北部で見つかる弥生前期の土器も、近畿や東海で見つかる弥生前期の土器も
きわめてよく似ていることから、広がるのにそれほど時間はかからなかったであろうと
考えられたこと。
第二は、常に食料不足に悩まされていた縄文人は、神の手に導かれるように水田稲作に
飛びついたと考えられたことである。

(中略)

しかし、炭素14年代にもとづく新しい年代観のもとでは、こうした考え方は成り立たな
くなる。九州北部から近畿に広がるまで約350年、関東南部にいたっては約650年かかっ
たことになるからだ。

『弥生時代の歴史』 藤尾慎一郎 講談社現代新書

大阪平野の水田稲作

紀元前7世紀、縄文海進、弥生海退で河内湾は河内潟となります。
大阪湾の干満差は大きく満潮時、現在の大阪城付近まで海水が来ていたようで大阪平野は、上町台地を潟の入口とする河内潟という内湾が広がっていました。
この河内潟の周りに水田が作られていた遺跡が見つかっています。

九州北部と同様に、大阪平野でも縄文土器と弥生土器が併存していたようです。
つまり、狩猟採集を行う縄文人と水田稲作を行う弥生人が共存していました。
その期間は炭素14年代によって、100~150年の間だと推定されています。
ただし、この学説は土器による検証が中心であり、農具等生産様式までは検証できていないのだそうです。

弥生中期から後期の間にこの共存は終わりを告げ、縄文系の人びとも水田稲作に転換していったとみられます。

この端境期には、縄文文化と弥生文化が併存していたようです。
入れ墨を顔に施した黥面土偶や男性性器の形をした石棒などが同じ弥生文化を持つ人びとの遺跡から見つかっています。
これだけでは証明できないにしろ、弥生人が縄文人を圧倒して一掃したという学説は間違いであることが推測できます。

水田稲作が東北地方へ広がる

1987年、青森県弘前市の砂沢遺跡で、紀元前4世紀の水田遺構が見つかります。
砂沢遺跡は、岩木山の北東麓に広がる丘陵の扇状地で、岩木川の左岸に位置し現状は近世の灌漑用の溜池の中に水没しています。
見つかった水田遺構は、面積が大きく、6区画見つかっています。
遠賀川式土器が発掘されており、縄文後期から晩期の土偶が見つかっています。
水田稲作を行いながらも、自分たちの伝統である縄文文化は大切に維持しています。
弥生文化に塗り替えられたということではないのです。

青森県南津軽郡田舎館村にある垂柳遺跡(たれやなぎいせき)からは、畔で区画された656面の水田跡が検出されています。

続縄文文化

紀元前4世紀、青森県まで来ていた水田稲作は津軽海峡を越えることはありませんでした。
北海道では、いわゆる続縄文文化が広がります。
この時代の人びとは専ら、漁撈生活を送っていたと推定されています。

貝塚後期文化

奄美大島・沖縄諸島では貝塚後期文化が広がります。

この地方も、水田稲作が普及することはありませんでした。
朝鮮半島や九州、先島諸島などとの交易で必要な物資を手に入れていたようです。

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