崇神天皇の御代

孝元天皇と大彦命の記事はこちら

崇神天皇:第10代

崇神天皇
崇神天皇 Wikipediaより引用

崇神天皇時代は、綏靖天皇から開化天皇までと違い、いろいろな事績が残っています。

大物主大神=ニギハヤヒを祀る

崇神天皇の時代は、疫病が大流行し、多くの人々が死亡しました。
2021年の疫病とは比べ物にならない人数が死んだのです。
もちろん当時は医療という概念がありませんので、何らかの祟りと考えられていました。
そしてこのような民衆の平和を脅かす事態を起こしたのは、神である天皇の施政にあるとされたのです。
崇神天皇は、このような非常事態を治めるために、天の神、地の神を祀る政策をおとりになります。
かつて大和の祖神として祀られていた大物主大神=ニギハヤヒの霊を冷遇したため天罰が下ったのだ、とお考えになりました。
そこで、ニギハヤヒの子孫である大田田根子(古事記では意富多多泥古)を祭主として、大神神社を創建されました。

大神神社

石上神宮

さらに、崇神天皇は伊香色雄尊に命じて、十種の神宝とヤマタノオロチを退治したときの剣である布都御魂を、石上神宮に祀られました。

石上神宮

大神神社と石上神宮を創建して、疫病退散を祈りました。
これは、大物主神=ニギハヤヒが皇祖神であることを示唆しています。
崇神天皇はこれ以外にも多くの神社を創建したと伝わります。
大和神社、熊野本宮大社をはじめ、官幣大社の多くが崇神天皇時代の創建だといわれています。

四道将軍

崇神天皇は、孝元天皇の御子である大彦命(大毘古命)を高志道(北陸)に派遣し、大彦命の子である武渟川別命(建沼河別命)を東方十二道(東海地方)に派遣します。
さらに、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に派遣します。
吉備津彦命は、孝霊天皇と倭国香媛の皇子です。別名は五十狭芹彦です。
吉備津彦命は、桃太郎のモデルとしても有名です。
岡山県岡山市の吉備津神社、吉備津彦神社の祭神は吉備津彦命です。
丹波道主命は、『古事記』では開化天皇の子の彦坐王の子です。

このように、崇神天皇の御代、大和地域から次第にその近隣地域に勢力を拡大しはじめました。
四道将軍の記述をみると、北は北陸、東は関東の両毛、西は吉備、丹波まで勢力下にしました。
ただし、九州、東北の記述が無いことから、これらは外部勢力が支配していたと推定できます。

御肇国天皇の称号

『日本書紀』
崇神天皇は、はじめて人民の戸口を調べて課役を行いました。
これが男の弭調、女の手末調です。これにより天下は平穏になりました。
そこで崇神天皇を誉め称えて「御肇国天皇」と呼びました。

「河内の狭山の田圃は水が少ない。それでその国の農民は農業を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいをひろめよう」と詔しました。
そこで、依網池、苅坂池、反折池を造りました。

神武天皇の「始馭天下之天皇」と崇神天皇の「御肇国天皇」の読みが「ハツクニシラススメラミコト」と同じであることから、神武天皇と崇神天皇は同一人物であるという説があります。
かなり強引でこじつけっぽい説です。
読みが同じだけで文字は違いますし、神武天皇は初代天皇であり、崇神天皇は中興の祖です。
神武天皇は初代天皇なので、奈良の一地方を統治した創設者です。
「神武東征」という表現が誤解を生んでいるのかもしれませんが、あくまでも九州から大和地方に移動=東遷したという表現のほうが正確です。
神武天皇が通った国々を征服したという意味ではないのです。
もちろん、全国にある地方の国を統一したわけではありません。
それに対し、崇神天皇は当時の地方にある国々をはじめて統一し天下にしらしめたはじめての天皇です。
どうみても状況が違いますし、同一人物にはどこから見ても合致しません。
これが同一人物に見えるほうがすごい想像力だと感心します。

崇神天皇の陵墓は比定できるか

崇神天皇の陵墓については、候補としては以下の説があります。

  • 西殿塚古墳:吉田東伍氏、森浩一氏
  • 箸墓古墳(箸中山古墳):和田萃氏、辻直樹氏、宝賀寿男氏
  • 行燈山古墳:山辺道勾岡上陵として宮内庁が管理、治定

これらの古墳は、奈良県東南部の山の辺の道に沿った磯城郡等の大和・柳本古墳群に存在します。
箸墓古墳は、現在邪馬台国論争で話題になっている纏向遺跡にある奈良で最古級の遺跡です。
現在は宮内庁より倭迹迹日百襲姫命の墓陵に治定されています。
西殿塚古墳は、宮内庁により「衾田陵」として継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されています。
箸墓古墳に後続する大和朝廷の天皇陵との見方があります。
行燈山古墳は、現在宮内庁より崇神天皇陵に治定されていますが、『日本書紀』に同名の陵の記載があるため、景行天皇陵という説があります。

陵墓の大きさをみると、西殿塚古墳:219m、箸墓古墳:278m、行燈山古墳:242m、渋谷向山古墳:276mです。
倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳より崇神天皇とされる西殿塚古墳、行燈山古墳の方が小さいということです。
マスコミを中心として展開される箸墓古墳と卑弥呼の比定論争に関心がいき、本来の分析ができていないきらいがあります。
天皇陵より皇后の墓が大きいというのは無理があります。
陵墓の大きさから判断すると、箸墓古墳が崇神天皇の陵墓である可能性が高いといえます。

天皇陵の比定は、宮内庁が発掘を禁止しているため考古学における学術的な進歩を阻み、停滞しています。残念ですね。

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