孝元天皇と大彦命

孝元天皇
孝元天皇Wikipediaより引用

孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇についてはこちら

孝元天皇:第8代

『古事記』
孝元天皇は、大倭根子日子国玖琉命、第8代天皇です。
孝霊天皇と細比売命の皇子です。
后妃:内色許売命(穂積臣らの祖である内色許男命の妹)、伊迦賀色許売命(内色許男命の娘)、波邇夜須毘売(河内の青玉の娘)
皇子女:大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根子日子大毘毘尊(開化天皇)、比古布都押之信命、建波邇夜須毘古命
宮の所在:軽の堺原宮 奈良県橿原市大軽町
崩御の年齢:57歳
御陵:剣池の中岡 比定地は奈良県橿原市石川町 剣池嶋上陵 中山塚古墳

大毘古命の子の建沼河別命は阿部臣らの祖です。
大毘古命の子の比古伊那許士別命は膳臣の祖です。
木国造の祖である宇豆比古の妹、山下影日売を娶って生んだ子は建内宿禰です。

『日本書紀』
孝元天皇は、大日本根子彦国牽天皇で、孝霊天皇と細姫命の太子です。
細姫命は、磯城県主大目の女です。
孝霊天皇36年春、19歳で皇太子に立たれました。
元年春、即位されました。太歳丁亥
4年春、都を軽の地に移されました。これを境原宮といいます。
6年秋、孝霊天皇を片丘馬坂陵(奈良県王寺町)に葬られました。
7年春、欝色謎命を立てて皇后とされました。二男一女を生まれました。
第一を大彦命、第二を稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)、第三を倭迹迹姫命といいます。
兄の大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣等の先祖です。
彦太忍信命は武内宿禰の祖父です。
22年春、稚日本根子彦大日日尊を立てて皇太子としました。16歳です。
57年秋、孝元天皇は亡くなられました。

『先代旧事本紀』
8年春、物部連公の祖・宇摩志麻治命の子孫、欝色雄命を大臣とされました。
また、大綜杵命を大祢とされました。

雀部臣系(内色許男命)の皇后

孝霊天皇までは磯城県主系の人脈でしたが、孝元天皇は雀部臣系の人脈に変わります。
雀部臣系の八井耳尊の子孫である内色許男命の妹、内色許売命と、同じく内色許男命の娘、伊迦賀色許売命が后妃になります。
八井耳尊は神武天皇の御子ですので、神武天皇の直径子孫が孝元天皇の皇后になります。
大和朝廷の勢力図が磯城県主から雀部臣、穂積臣勢力に塗り替えられたのでしょう。

■福島県会津の由来
『古事記』によれば、崇神天皇の時代、大毘古命が諸国平定の任務を終え高志国に向かう途中、東方に派遣されていた建沼河別命と、親子が相津の地で合流しました。それで相津(会津)と呼ばれるようになったといいます。

大彦命

孝元天皇の第一皇子である大彦命は、四道将軍の一人です。
『古事記』では、大毘古命。
孝元天皇と鬱色謎命(内色許売命)の第一皇子です。
大彦命の長男が武沼河別尊で、阿部臣の祖先です。

孝元天皇は欠史八代の一人の天皇です。
1968年に発見された稲荷山古墳の国宝出土鉄剣銘文に、❝祖名意富比垝❞「上祖、名はオホヒコ」と読める文章が残っていました。
「オホヒコ」は、『日本書紀』四道将軍の1人「大彦命」とみなす事が可能です。
稲荷山古墳の出土鉄剣銘文は、5世紀の雄略天皇に関する記述だという説が有力です。
考古学での新たな発見であり、5世紀の歴史的事実の証拠として大きな意義があります。
その中にオオヒコとあることから、これが大彦命であれば欠史八代という空想が瓦解することになります。

敢國神社

■敢國神社
敢國神社は、三重県伊賀市一之宮にある658年創建と伝わる古社です。
敢國神社には大彦命が主祭神として祀られています。
伝承では、大彦命は、孝元天皇の皇子で、四道将軍として北陸を教化、その後子孫は伊賀国に定住しました。
敢國神社の「あえ」は、「あべ」の原音だということで、阿部臣の総祖神となっています。との記載があります。
『古事記』および稲荷山古墳のオオヒコと合わせて、実在の可能性を高める材料となります。
この敢國神社には、秦氏の信仰神として少彦名命が祀られていて、秦氏が伊賀に住んだと伝わります。

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