孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇

綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇はこちら

孝昭天皇:第5代

孝昭天皇
孝昭天皇 Wkipediaより引用

『古事記』
孝昭天皇は、御真津日子訶恵志泥命、第五代の天皇です。
懿徳天皇と賦登麻和訶比売命(飯日比売命)の第一皇子です。
后妃:余曾多本毘売命(尾張連の祖である奥津余曾の妹)
皇子女:天押帯日子命、大倭帯日子国押人命(孝安天皇)
宮の所在:葛城の掖上宮
崩御の年齢:93歳
御陵:掖上の博多山 比定地は奈良県御所市三室 掖上博多山上陵

『日本書紀』
孝昭天皇は、観松彦香殖稲天皇です。
懿徳天皇と天豊津媛命の皇子です。
元年春、孝昭天皇は天皇に即位されます。
太歳丙寅
元年秋、都を掖上に移します。
29年春、世襲足媛を皇后とします。
皇后は、天足彦国押人命、日本足彦国押人天皇(孝安天皇)を生まれました。
68年春、日本足彦国押人尊を立てて皇太子とされました。年は20歳です。
83年秋、天皇は崩御されました。

『先代旧事本紀』
宇摩志麻治命の後裔の出石心命を、大臣とされました。

孝安天皇:第6代

孝安天皇 Wkipediaより引用

『古事記』
孝安天皇は、大倭帯日子国押人命、第六代天皇です。
皇子女:大吉備諸進命、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)
后妃:忍鹿比売命(天押帯日子命の娘)
宮の所在:葛城の室の秋津島宮
崩御の年齢:123歳
御陵:玉手岡 比定地は奈良県御所市玉手 玉手岡上陵

『日本書紀』
孝安天皇は、日本足彦国押人天皇、孝昭天皇と世襲足媛の第二子です。
元年春、孝安天皇は天皇に即位されます。太歳己丑
2年冬、都を室の地に移します。これを秋津嶋宮といいます。
26年春、姪押媛を立てて皇后とされます。
皇后は、大日本根子彦瓊天皇(孝霊天皇)を生まれました。
38年秋、孝昭天皇を掖上博多山上陵(奈良県御所市大字三室字博多山)に葬られました。
76年春、大日本根子彦瓊尊を立てて皇太子とされました。年は26歳です。
102年春、天皇は崩御されました。

『先代旧事本紀』
3年、宇摩志麻治命の子孫の六見命と三見命をともに足尼とし、次いで宿祢とされました。

孝霊天皇:第7代

孝霊天皇 Wkipediaより引用

『古事記』
孝霊天皇は、大倭根子日子賦斗邇命、第七代天皇です。
孝安天皇と忍鹿比売命の第二皇子です。
后妃:細比売命(十市県主の祖である大目の娘)、春日の千千速真若比売命、蝿伊呂杼
皇子女:大倭根子日子国玖琉命(孝元天皇)、千千速比売命、夜麻登登母母曾毘売命、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命、倭飛羽矢若屋比命、日子寤間命、若日子建吉備津日子命
宮の所在:黒田の廬戸宮
崩御の年齢:106歳
御陵:片岡の馬坂 比定地は奈良県王寺町本町 片丘馬坂陵

『日本書紀』
大日本根子彦太瓊天皇、孝安天皇と押媛の太子です。
押媛は天足彦国押人命の女でしょう。
102年春、孝安天皇は亡くなられました。秋、玉手丘上陵(奈良県御所市玉手字宮山)に葬られました。
102年冬、皇太子は都を黒田に移されました。これを廬戸宮といいます。
元年春、天皇に即位されました。太歳辛未
2年春、細媛命を立てて皇后とされました。
皇后の細媛命は、大日本根子彦国牽天皇(孝元天皇)を生まれました。
妃の倭国香媛は、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命を生まれました。
妃の絙某弟は、彦狭島命、稚武彦命を生まれました。稚武彦命は吉備臣の先祖です。
36年春、彦国牽尊を立てて皇太子とされました。
76年春、天皇は亡くなられました。

『先代旧事本紀』
3年の春、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命と大矢口命をともに宿祢とされました。

まだ磯城県主の勢力内にあった三代の天皇

綏靖天皇から懿徳天皇までの3代は比較的短期間の在位であったらしく、磯城県主の兄弟からそれぞれ皇后を出しています。
そして、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇の3代は、大きな出来事がなかのか、事績も記載されません。
事績の記載がないということは、伝聞も少なく、安定した政権運営をしていたと推定できます。
『先代旧事本紀』に、宇摩志麻治命の子孫が、それぞれの天皇に仕えたことが載せられています。
この辺りから、氏族の歴史が登場します。
事績の記載がないから、欠史八代ではないかという説がありますが、それだけでは根拠が弱いですし、いくら大昔のことであっても、天皇を偽造することは難しいと思います。
各氏族には祖先の言い伝えや、系図が残っていたはずですから。
神武天皇については事績も多く残り、それ以外の天皇は残っていなかったのではないでしょうか。
証拠が見つからない限り、今となっては分からないというのが正解です。
記紀編纂時、いろいろな議論がなされたでしょうが、日本の正史としてまとめられたという事実が重要です。

日本人の気質として、できる限り真摯に歴史を残したいという思いが、当時からあったでしょう。
『日本書紀』の編纂姿勢にも書かれています。
たとえ当時の為政者が脚色しているとしても、偽りの歴史を正すという主旨があったのです。
当時の為政者の影響が反映されているとはいえ、できる限り事実に即して編纂したものだと思いたいです。

Follow me!