綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇
綏靖天皇
欠史八代についてはこちら
『先代旧事本紀』の現代語訳はこちらを参考にしています。現代語訳『先代旧事本紀』
![綏靖天皇](https://www.nukumori1.com/wp-content/uploads/2021/02/Suizei_thumb_1.jpg)
『日本書紀』
綏靖天皇は神渟名川耳天皇で、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命の第三皇子です。
綏靖天皇の皇后は、事代主神の次女、五十鈴依媛命です。
一書では磯城県主の娘の川派媛となります。
『古事記』
綏靖天皇は神沼河耳天皇で、神武天皇と伊須気余理比売の第三皇子です。
綏靖天皇の皇后は、師木県主の河俣毘売です。
宮の所在:葛城の高岡宮(御所市森脇)
崩御の年齢:45歳
御陵:衝田岡 比定地は桃花鳥田丘上陵(塚山古墳)
『日本書紀』によると、綏靖天皇48歳の時に、神武天皇が崩御されました。
腹違いの兄である手研耳命は弟二人を殺害しようと図ります。
この時、太歳己卯
元年の春に即位。太歳庚辰
25年春、磯城津彦玉手看尊を皇太子とします。
33年夏、天皇が崩御されます。太歳癸酉 84歳
桃花鳥田丘上陵(橿原市大字四条字宇田井ノ坪)に葬られました。
『先代旧事本紀』
三年春、宇摩志麻治命の子の彦湯支命を、食国の政事を行う大夫とされました。
河俣毘売(川派媛)は、宇摩志麻治命の子である彦湯支命の子です。
つまり、宇摩志麻治尊の孫にあたります。
磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。
磯城県主は宇摩志麻治命系、つまりニギハヤヒの子孫です。
欠史八代の一人と言われています。
安寧天皇
![安寧天皇](https://www.nukumori1.com/wp-content/uploads/2021/02/Annei_thumb.jpg)
『日本書紀』
安寧天皇は、磯城津彦玉手看天皇です。綏靖天皇と五十鈴依姫命の嫡子です。
綏靖天皇33年夏、綏靖天皇が亡くなり、太子は皇位につかれました。
太歳癸丑
2年、都を片塩に移します。浮孔宮です。
3年春、渟名底仲媛命を皇后としました。
第一子は息石耳命、第二子は大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)です。
11年春、大日本彦耜友天尊を皇太子としました。弟の磯城津彦命は、猪使連の始祖です。
38年冬、天皇は崩御されました。57歳
『古事記』
安寧天皇は、師木津日子玉手見命です。綏靖天皇と河俣毘売の第一皇子です。
安寧天皇の皇后は、師木県主波延の娘である阿久斗比売です。
皇子女:常根津日子伊呂泥命、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、師木津日子命
宮の所在:片塩の浮穴宮
崩御の年齢:49歳
御陵:畝火山の美富登 比定地は畝傍山西南御陰井上陵(塚山古墳)
『先代旧事本紀』
四年の夏四月、出雲色命を政事を行う大夫とされました。
また、大祢命を侍臣としました。二人はともに宇摩志麻治命の孫です。
安寧天皇も、磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。
懿徳天皇
![懿徳天皇](https://www.nukumori1.com/wp-content/uploads/2021/02/Itoku_thumb.jpg)
『日本書紀』
懿徳天皇は、大日本彦耜友天皇です。安寧天皇と渟名底仲媛命の第二子です。
安寧天皇38年冬、安寧天皇が亡くなり、太子は皇位につかれました。
太歳辛卯
2年春、都を軽に移します。曲峡宮です。
この年、天豊津媛命を皇后としました。
皇后は、観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)を生みました。
22年春、観松彦香殖稲尊を皇太子としました。
34年秋、天皇は崩御されました。
『古事記』
懿徳天皇は、大倭日子鉏友命です。安寧天皇と阿久斗比売の第二皇子です。
懿徳天皇の皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売命(飯日比売命)です。
皇子女:御真津日子訶恵志泥命(孝昭天皇)、多芸志比古命
宮の所在:軽の境岡宮
崩御の年齢:45歳
御陵:畝火山の真名子谷 比定地は畝傍山南繊沙渓上陵
『先代旧事本紀』
元年三月、食国の政事を行う大夫だった出雲色命を大臣とされました。
懿徳天皇も、磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。
短期間で譲位した3代の天皇
上記で示したように、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の3代は、磯城県主の子孫が皇后になっています。
また、『先代旧事本紀』にあるように政治的にも、宇摩志麻治尊、磯城県主が力を持っていたことが分かります。
この三代の天皇は短期間で継承されていたことになります。
この三代の天皇は宇摩志麻治命の孫の世代にあたります。