倭の五王(つづき)

前回の倭の五王と宋書倭国伝の記事はこちら

倭の五王

宋書倭国伝の内容と倭の五王

魏志倭人伝と違うのが、朝鮮半島で帯方郡という中国領が無くなり、高句麗という独立国を経由して政治を行っているという記述です。
中国の直轄領が無くなり属国支配による統治に入っています。
朝鮮半島で国ができ始めたことが分かります。

■ 讃
421年、427年の遣使派遣時は倭国以外の称号は認められませんでした。
この時の倭王が「讃」です。

■珍
第三回の遣使で、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六カ国が日本領だと主張しますが、倭の一カ国だけが認められます。
この時の倭王が「珍」です。珍は讃の弟です。
高句麗と百済はこの中にありません。
高句麗については、宋書倭国伝に高麗という記述がありますので、日本領ではないことが明らかです。
百済については、建国時期が分かりませんので(通説では4世紀前半)、日本領ではないのか、建国していなかったのかは不明です。
『日本書紀』などを見ると、4世紀後半には日本に朝貢していた記述があることから、5世紀前半には一旦消滅していたのかもしれません。

■ 済
443年、「済」が遣使を派遣します。

451年、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の日本領が認められます。

■ 興
「済」が亡くなり「興」が遣使を派遣します。

■武
478年、「武」が遣使を派遣します。武は興の弟です。
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓が日本領として認められますが、百済は含まれません。

462年の遣使時、自ら称した国の中に百済が入っています。
慕韓は馬韓のことなので、百済は、まだ慕韓だということです。
この頃、百済が復活し慕韓から再独立したのではないでしょうか。
だから、宋も「百済というのは国ではないのだから、称号には含めないよ!」ということかもしれません。
確かに『日本書紀』雄略天皇の御代に、百済が高麗に滅ぼされたと書かれています。
後の世である白村江の戦いがあった7世紀、百済は高句麗に滅ぼされていますから、度々百済は滅んだり再建されたりしたのでしょう。

倭の五王を比定できるか

いわゆる、倭の五王とは誰か?
讃・珍・済・興・武は具体的に誰なのか?

通説では、下記の歴代天皇に比定されています。

  • 讃=仁徳天皇
  • 珍=反正天皇
  • 済=允恭天皇
  • 興=安康天皇
  • 武=雄略天皇

興=安康天皇と武=雄略天皇は、ほぼ間違いないと考えられます。
即位紀年的にも『日本書紀』と合致します。
済=允恭天皇も系図を見る限り、合っていそうです。
讃=仁徳天皇と珍=反正天皇については、通説でもいろいろな仮説があるように、不明というしかありません。

仁徳天皇については『日本書紀』の崩御が110歳となっていたり、大仙陵古墳も仁徳天皇陵で確定しているわけではないなど、不明点が多いです。

天皇の干支から紀年を推定した記事

『日本書紀』の紀年を優先するのか、宋書倭国伝の年代を優先するのか。
記紀には干支は記載されていますが年代が書かれておらず、その干支も正しくないため、紀年が確定できません。
それなら、宋書倭国伝の年代を正しいとみなして、記紀の年代を推定してみるとどうなるでしょうか。

【仮説】仁徳天皇の紀年を宋書倭国伝から推定する

宋書倭国伝の年代が正しいと仮定して、仁徳天皇の紀年を推定してみましょう。

421年と425年に中国で「讃」と呼んでいる倭国王が朝貢します。
讃が死亡し弟の「珍」が即位し、朝貢します。
宋書倭国伝によれば、讃と珍は兄弟です。


『日本書紀』を見ると、仁徳天皇と兄弟にあたるのは、菟道稚郎子命と大山守命です。
大山守命は菟道稚郎子命の兄で、仁徳天皇の兄です。
珍の候補ですが、大山守命は皇太子になっていないので、除外できるとして、菟道稚郎子は皇太子になっています。
また、播磨国風土記に「宇治天皇」と書かれていて、一時期、天皇として即位していた可能性があります。
菟道稚郎子は、讃の候補になると考えられます。

菟道稚郎子の神社があります。
宇治神社です。


菟道稚郎子は、皇太子になりますが、兄の仁徳天皇が天皇に即位するべきとして、互いに皇位を譲り合います。
そして、自分がいるから仁徳が天皇になれないのはおかしいとして、自殺してしまいます。
『日本書紀』の美談の一つです。
少しおかしいところがあります。
『日本書紀』は自殺としますが、『古事記』では病死となっています。
兄が天皇になるべきといいながら、立皇子したときに、なぜ兄の大山守を殺害したのかが謎です。
仁徳天皇が二人を殺害したのではないかという説があるようです。

しかも、讃が亡くなった後に弟の珍が即位しているという記述がありますので、この兄弟関係が矛盾します。
兄が菟道稚郎子で弟が仁徳天皇の可能性はないのでしょうか。
あるいは、宋書倭国伝の兄弟関係の記述が間違っていないのか。
兄弟関係が逆の可能性が無いのか調べましたが、証拠は出てきませんでした。
今後の研究課題として調べてみたいと思います。

ということで、讃=菟道稚郎子、珍=仁徳天皇と仮定して、年代を推定してみましょう。

426年頃、菟道稚郎子が崩御、仁徳天皇が即位
451年頃、允恭天皇が崩御、安康天皇が即位
462年頃、安康天皇が崩御、雄略天皇が即位
という年表が推定されます。

そもそも日本の天皇が朝貢するのかという疑問があります。
天皇が遣使を派遣することはあるかもしれませんが、目的が朝貢だったのかどうかは疑問です。
讃・珍・済・興・武 という名前も、日本人にはあまり居ない一字の名前であり、中国が付けたがる卑下した名称になっていないのも疑問です。
当時、九州の王朝がまだ存在していたとも考えられることから、ヤマト王権とは別の王朝という説も可能性がないとはいえません。

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