平治の乱と平清盛

平治の乱
『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)Wikimedia Commons

平治の乱とは、平治元年(1160年)12月9日、院近臣らの対立により発生した内乱です。
保元の乱後、後白河上皇の寵臣・藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵し、義朝・信頼は殺され、源氏勢力が衰退し、平氏政権が出現しました。
保元の乱と合わせて、保元・平治の乱ともいいます。

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信西と後白河天皇の親政

混乱の時代に要求されるのは権謀術数に長けた策略家です。
藤原鎌足、不比等、源頼朝、豊臣秀吉、そして信西も策略家でした。
信西は、嘉承元年(1106年)に生まれ、俗名・藤原通憲といい、藤原南家・貞嗣流、藤原実兼の息子です。
出家して信西を名乗ります。
父・藤原実兼は文章生出身の蔵人で、祖父は大学頭という学問のエリートの家系でした。
『本朝世紀』、『 法曹類林』、『 日本紀註』などの書籍を遺しています。
しかし、この時代は家柄で評価されたため、たとえ頭脳明晰であっても、家格の低い信西の肩書は少納言止まりという低評価でした。

そのような信西が権力を握り始めたきっかけは、保元の乱でした。
敵対する崇徳上皇、藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝が夜襲を進言したものを採用して後白河側を勝利に導きました。
はじめ源氏の部隊のみ出動させる計画だったものを平氏も出動させるよう主張して実行したのは信西の策略です。
信西は徹底的に摂関家の弱体化を目論みます。
源為義一族が幼いものとも斬首され、鎮西八郎・為朝も伊豆へ流罪となりますが、摂関家で勢力を伸ばしていた源氏壊滅を目論んだ信西の命令でした。

保元新制(保元の荘園整理令)

保元元年(1156年)、保元新制といわれる保元の荘園整理令が発布され、つづいて記録荘園券契所が設置されます。
一般の荘園から寺社の荘園まで、取り締まりを強化しました。
荘園を没収することで財力を奪い摂関家や寺社を弱体化させるために行われました。
同年に大内裏の再建が行われます。
造営費用は全て後白河天皇の宣旨に基づき公領・私領の区別なく賦課され、違反する荘園には没収や領家の交替を行うことが布告されました。
これも、摂関家の財力を奪うのが目的でしたが、二年ほどで完成させることになり、信西の実行能力の高さを伺わせます。

後白河天皇は、大治二年(1127年)9月、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれます。
保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御されると保元の乱が発生します。

保元三年(1158年)、後白河天皇は在位わずか三年で、16歳の守仁親王(二条天皇)に譲位します。
これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」、すなわち守仁親王養母・美福門院と信西の密談によるものだったといわれます。
関白・忠通には寝耳に水、つまり蚊帳の外だったようです。
二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子・俊憲、貞憲を送り込み、政治手腕を発揮します。

平治の乱の張本人が、藤原信頼です。
藤原信頼は、鳥羽上皇の近臣・藤原忠隆の四男として生まれます。
人物評としては凡庸だったと『平治物語』に記されています。
信頼は新進気鋭の信西と対立します。
信頼は信西の対抗として源義朝を味方につけます。
信頼と義朝は信西打倒のクーデターを決起します。

平治の乱勃発

平治元年(1159年)12月、平清盛は一家で熊野詣に出て都をあとにします。
この機に乗じて信頼の指示で源義朝軍が院の御所・三条殿を包囲し、信西とその一族を討伐しようと襲撃します。
信頼らは後白河上皇・上西門院の身柄を確保すると、三条殿を放火しました。
しかし、ターゲットの信西やその一族は事前に察知して逃れます。
13日、検非違使源光保が田原の山中で土中に穴を掘って隠れていた信西を発見、首をはねて持ち帰り、晒首にしました。
14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、みずから除目を行いました。
この除目で源義朝は従四位下播磨守、息子・頼朝は右兵衛権佐に任じられました。

一方熊野詣に出ていた平清盛一行は、六波羅からの早馬によって信頼クーデターを知ったのは、10日、紀伊国・田辺でした。
16日、帰京、六波羅邸に戻りました。

義朝はクーデターのため少数の軍勢を集めたに過ぎず、本国の武士を集められず、合戦をすぐに始めることは想定していなかったとみられます。
東国より兵を率いてやってきた義朝の息子・源義平は直ちに清盛の帰洛を阿倍野で迎え討とうと主張しますが、信頼はその必要はないと退けました。

二条親政派の経宗・惟方は密かに清盛に接触、25日夜、女装した二条天皇に藤原惟方が付き添い六波羅邸に脱出させることに成功します。
後白河上皇も密かに仁和寺に脱出しました。
清盛側の藤原成頼がこれをふれを回したことで、忠通以下公卿・殿上人は続々と六波羅に集結します。
清盛は一気に官軍としての体裁を整え、信頼・義朝の追討宣旨が下され、平氏の軍勢が大内裏を攻撃しました。
六条河原で敗退した義朝は、尾張国内海荘で旧臣・長田忠致に討伐され、子の頼朝は捕らえられました。
源氏はこの戦いで壊滅的打撃を受け衰退しました。

二条親政派の経宗・惟方は、後白河が藤原顕長邸に御幸して桟敷で大路を見物していたところ、材木を打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行いました。
後白河上皇は大いに憤慨し、清盛は経宗・惟方を捕縛、流罪に処します。

平清盛と平氏政権

平清盛は、永久六年1月(1118年)、伊勢平氏の棟梁である忠盛の嫡男として生まれますが、生母は不明で白河法皇のご落胤説が有力です。

永暦元年(1160年)、除目で清盛は参議に任じられ、武士で初めて公卿の地位を得ます。
白河法皇のご落胤である可能性が高いといわれる平清盛は、太政大臣、従一位の地位にまで駆け上がります。
さらに、長男・重盛は正二位内大臣左近衛大将に、重盛の息子・維盛は従三位右近衛中将に、宗盛は従一位内大臣に、知盛は従二位権中納言に、重衡は正三位左近衛中将にそれぞれ昇進しました。
承安元年(1171年)、清盛の娘・徳子を高倉天皇に入内させ、外戚の地位を得ようとします。
治承二年(1178年)、徳子が皇子(安徳天皇)を生み、直ちに東宮になりました。

清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇の勢力は次第に平氏に警戒感を持つようになり、清盛と対立を深めていきます。
対立の中起きたのが、鹿ヶ谷の陰謀・鹿ヶ谷事件であり、治承三年の政変へと繋がっていきます。

治承三年(1179年)、盛子が没すると、後白河法皇は盛子が相続した摂関家領を没収します。
さらに、重盛が没すると、維盛が相続した越前国を没収します。
さすがに黙ってた清盛もこれには切れて、数千騎の武士を率いて入洛します。
関白・基房、その子・師家を解任、太政大臣・藤原師長など数々の公卿を解任させました。
後白河法皇は清盛の指示で鳥羽殿に幽閉され、後白河の第二皇子・以仁王も所領没収され、このことが原因で、以仁王の挙兵に繋がりました。
これで、清盛独裁体制が始まりました。

平清盛
平清盛と伊勢平氏

治承・寿永の乱:源平合戦

治承四年(1180年)、治承・寿永の乱が始まります。
治承・寿永の乱 とは、源平合戦ともいわれ、治承四年(1180年)から元暦二年(1185年)にかけて6年間におよぶ大規模な内乱です。
後白河法皇の第三皇子・以仁王が、源頼政、足利義房らの計画にのって挙兵します。
自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえた檄文(令旨)を下し、源氏に決起を促しました。
以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍の攻撃を受け、頼政軍は宇治の平等院で全滅、敗走途中、以仁王は戦死します。

源頼朝の挙兵

平治の乱で捕らえられ、伊豆に流され流人生活を送っていた源頼朝は、三善康信ら京都の人々と交流し情報を収集していましたが、以仁王の令旨を受け取り、挙兵を決意します。
治承四年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政や佐々木秀義父子が、平時忠の伊豆国目代・山木兼隆を韮山の屋敷を襲撃して討ち取リます。
8月23日、真鶴付近の石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平家方の大庭景親、伊東祐親ら相模国の軍勢三千余騎と戦って敗北し、安房に逃れますが、武蔵・相模の武士が相次いで頼朝の元に結集、強大な勢力へと成長していきました。
10月18日には、水鳥の羽音に驚いて逃げ出したという説話で有名な富士川の戦いで勝利します。
治承四年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏、美濃源氏らが挙兵して全国各地は源平により動乱状態となりました。
その後、養和元年(1181年)、清盛は高熱に倒れ、64歳で亡くなりました。
文治元年(1185年)1月6日、義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると、19日の屋島の戦いで奇襲が成功し平氏は彦島に逃れました。
3月24日の壇ノ浦の戦いが起こり、追い詰められた総大将・知盛の命で、安徳天皇を抱いた二位尼(時子)、建礼門院徳子、経盛、資盛、知盛らは次々に入水し、遂に平氏は滅亡しました。

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