後三条天皇:藤原氏を外戚としない天皇 Emperor Gosanjo

後三条天皇
後三条天皇 Wikimedia Commons

後三条天皇は、宇多天皇以来の藤原氏を外戚としない天皇といわれます。
菅原道真を抜擢し寛平の治といわれる善政を行った宇多天皇以降、170年間藤原氏の外戚が政権を牛耳ってきたのです。
後三条天皇になり、藤原色が薄くなったことで常識的な改革を行うことができるようになった、といえます。
もう少しいえば、藤原氏が悪政つまり私利私欲のための政治体制を敷くことができなかったといえるのです。

後三条天皇は、後朱雀天皇の第二皇子・尊仁親王で、母は三条天皇の第三皇女である皇后禎子内親王です。
生まれは 長元七年(1034年)、崩御は 延久五年(1073年)40歳です。

そのころ最高権力者であった藤原頼通は、当然のように外戚関係の殆どない尊仁親王を東宮にしたくないと考えていました。
頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させ外戚として権力を掌握するために、尊仁親王を排斥するように妨害工作を行っていました。
「壺切御剣」の話は有名で、壺切御剣は東宮が代々伝授する剣なのに、後三条天皇が東宮になっても23年間、頼通が伝授しないで留め置いたと言われています。
しかし頼通が期待して入内させた寛子、歓子には御子が生まれず、後冷泉天皇は病にかかり、治暦四年(1068年)に崩御されます。
ここでついに尊仁親王が天皇に即位、後三条天皇となります。年齢35歳という壮年での遅い即位となりました。

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延久の善政と後三条天皇 Enkyu’s good politics

頼通・教通が東宮を疎んじていることを知って他の公卿達も後三条天皇を蔑ろにする風潮がありました。
しかし、後三条天皇は、そのような公卿にも公平な目で評価し、能力あるものを登用するようにしました。
宇治大納言・源隆国は、東宮時代の後三条天皇に対して頼通に気兼ねして蔑ろにしていました。
後三条天皇は即位後、隆国の子息たちを貶めようと考えていましたが、天皇がご覧になったところ子息の働きぶりが優秀だったため、隆国の子息の隆俊、隆綱、俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示しました。

後三条天皇が即位し元号を延久に改め、その後に行った施政を「延久の善政」といわれることになります。
引退した頼通に代わって藤原教通を関白に起用、藤原道長の四男・能信の娘、茂子、昭子を女御に据えます。
村上源氏の源師房を右大臣に、大江匡房、藤原実政を補佐役に任命するなど意中の人物を登用し、バランスをとった人事をおこないます。

まず行ったのが八省院、内裏の造成です。
八省院(朝堂院)や内裏の造営では、地方に賦課し、行事所を設置して造営しています。

・估価法の制定
延久四年(1072年)、市場における価格、物品の換算率を定めた法律である估価法を制定します。
今で云う物価安定策です。

・記録荘園券契所の設置
後三条天皇の目玉の改革として荘園整理令による記録荘園券契所の設置があります。
延久の荘園整理令として有名です。
関白・頼通のときに、口頭で摂関家の領地と称する違法荘園が諸国に充満し、そのため受領が国務が滞ると、訴えている話を後三条天皇が耳にされ、 荘園整理令による記録荘園券契所の設置が決定したとされます。
記録荘園券契所とは、荘園所有者から荘園の書類(券契)を提出させ審議し、その基準を満たさない荘園は停止する、というものです。
例えば石清水八幡宮では、 記録荘園券契所に審査提出した所領34箇所のうち、認められたのは21箇所でした。

これまでは国司が荘園整理令を執り行っていたため、国司によっては公領を意図的に増やそうと強引に荘園を整理していました。
それが、中央政府の執行となり、嫌疑のある所領は最終的に天皇の名のもと、国として判断し決済されました。
公正、客観的な判断を重視した後三条天皇の意志がこの荘園整理令に読み取れます。
それゆえ、今までの藤原摂関政治の不公平、主観的な政治というものがこの善政から浮かび上がります。

この荘園整理令によって、領地における藤原摂関家の権威が弱まり、受領たちは公領地を復活させることができました。

延久四年(1072年)、即位からわずか4年で第一皇子・貞仁親王(白河天皇)に譲位して太上天皇となりますが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御されました。
天皇譲位には病気説と非病気説があり、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病気によるものとする説が有力です。
また、後三条天皇が院政を敷こうとしていたかどうかにも諸説あり、通説化されていません。

このように、後三条天皇の施政では、一つの国で平均的に賦課される一国平均役や荘園整理令をはじめ、 估価法、宣旨枡を制定するなど、数々の経済政策を実施、王権の支配を拡大していきました。

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