源頼朝の挙兵から鎌倉幕府成立へ

鎌倉幕府の成立
絹本着色伝源頼朝像神護寺蔵)Wikimedia Commons

源頼朝・清和源氏の嫡流

源頼朝は、久安三年(1147年)、父・源義朝と熱田大宮司・藤原季範の娘(由良御前)との間に、三男として尾張国愛知郡熱田で生まれました。
父親の源義朝は、八幡太郎義家から4代目にあたり、頼朝は清和源氏頼信流の河内源氏としては7代目です。
源頼朝は、言わずとしれた鎌倉幕府の初代将軍です。
出生地は諸説あり、由良御前の地元である尾張説、鎌倉説、京都説などがありますが、尾張幡屋で生まれたという説が有力です。
頼朝の乳母は比企尼、寒河尼、山内尼が知られています。
比企尼は、武蔵国比企郡の武士で藤原秀郷の譜系である比企掃部允の妻です。
寒河尼は、下野国の武士・小山政光の妻で、結城朝光の母です。
山内尼は、相模国の武士・山内首藤俊通の妻で、山内首藤経俊の母です。
三人とも関東の武士出身の乳母ですので、武士の思想、趣向を土壌として育てられたことがわかります。
保元元年(1156年)、頼朝の父・義朝は保元の乱で勝利し左馬頭に昇進します。
その頃、頼朝は10歳前後で一番環境の影響を受ける年頃ですので、京都に生活が移りその貴族的気風が育まれたと思われます。
すなわち、関東武士と京都の気風を兼ね備えたのが頼朝の特徴だったのです。

そんな文武両道の環境で育った頼朝ですが、大事件に巻き込まれます。
それが平治の乱です。
平治元年(1159年)、後白河法皇をめぐって信西と藤原信頼が対立し、信西は平清盛と信頼は源義朝と組んで対立します。
信頼・義朝軍は清盛の熊野参詣中に挙兵し、法皇を幽閉し信西を殺害しました。
しかし帰京した清盛軍に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で殺されたのです。
この時、頼朝は13歳前後、義朝とともに関東に逃れる途中、近江国で捕らえられ六波羅に護送されます。
義朝の嫡子である頼朝、本来なら死罪が当然ですが、頼盛の母で清盛の継母にあたる池禅尼や頼盛の懇願によって死罪は免れ、伊豆に流罪となります。

源氏系図と源頼朝
源氏系図

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源頼朝・伊豆の配流生活

以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発したのが、治承四年(1180年)ですので、源頼朝は約20年間の長きにわたり配流生活をおくることになります。
配流地は、伊豆の蛭ヶ小島という説が有力です。
蛭ヶ小島は現在の静岡県伊豆の国市韮山にある狩野川の中洲にある湿地帯といわれています。
流人・頼朝の伊豆蛭ヶ小島での生活がどのようであったのかは、ほとんど伝わっていません。
監視はあったものの比較的自由な行動が許された流人生活だったと推測されます。
吾妻鏡』によると、源頼朝は、霊山箱根山の箱根権現、伊豆山の走湯権現に深く帰依して常に読経を怠らず、亡父・義朝や源氏一門の菩提を弔いながら、一地方武士として生活をしていました。
頼朝を援助していたのは、乳人関係の縁者でした。
比企尼の娘婿である安達藤九郎盛長、武蔵国の武士・河越重頼、伊豆の伊東祐清が側近として仕え、治承の挙兵以降も側近として活躍しています。

そんな隠遁生活をおくる頼朝でしたが、青春の真っ只中、若さに任せてある女性と恋に落ちます。
伊東祐親の三女・八重姫と恋に落ちて子・千鶴丸が生まれます。
これに驚いた祐親は千鶴丸を伊東の滝に投げ捨て、八重姫を江間小四郎に嫁がせ、頼朝を殺そうとしました。
子供を殺され八重姫と強引に別れさせられた頼朝は、危うく難を逃れ、逆に祐親を殺そうと考えますが、祐清に説得されて踏みとどまりました。
このエピソードは『曽我物語』によるもので、フィクションの可能性が高いといわれています。

北条政子との出会い

北条政子との結婚は、長女・大姫が生まれる治承二年(1178年)より少し前頃とみられます。
北条政子は頼朝の10歳年下ですので、頼朝30歳、政子20歳頃のことでした。
八重姫のときと同じく父・北条時政に激しく反対され、二人の仲を引き離そうとしますが、政子は気性が激しくこれに反抗します。
父の仕打ちに従わず、深夜雨の中を山を越えて伊豆山にいる頼朝のもとに戻りました。

「君流人として豆州に坐し給ふのころ、吾において芳契ありといへとも、北條殿時宜を怖れ、潜かに引籠めらる
しかるに猶君に和順し、暗夜に迷ひ、深雨を凌き、君の所に到る」
これは、後年、義経の恋人静御前が舞を披露した際に、頼朝に助命を懇願した北条政子が、頼朝との結婚について回想して述べた言葉と言われます。

このように北条時政の反対を押し切って頼朝と政子は結婚し、北条氏の後援を得て、挙兵へと邁進することになります。

北条時政

北条政子の父親である北条時政を頭とする北条氏は、桓武平氏の祖・高望王の流れをくむ平国香の子孫と称し、伊豆北条を在地とする豪族です。
ただし、桓武平氏というのは自称であり、確かな系譜は不明で、時政の祖父・時家が伊豆介に就いていることは事実とみられ、その頃伊豆に住み着いたのではないかと推測されます。
旧来、北条氏の勢力は大豪族であったと考えられてきましたが、最近の研究では小規模豪族だったという説が有力です。
治承四年の頼朝挙兵時、北条氏の軍勢は50騎前後であったとみられ、伊東祐親の三百騎とは大きな差がありました。
頼朝が大豪族の北条氏の力を借りて平氏打倒に乗り出したということではなく、北条氏が源氏嫡流の貴種・頼朝を担いで千載一遇のチャンスを得ようとした、というのが実情のようです。

頼朝の挙兵(治承・寿永の乱)

治承・寿永の乱は、治承四年(1180年)から元暦二年(1185年)の6年間にわたる大規模な源平合戦ともいわれる内乱です。

鹿ヶ谷の陰謀

鹿ヶ谷の陰謀は、安元三年(1177年)6月に京都で平家打倒の陰謀事件です。
事件の発端は、延暦寺僧兵の反乱でした。
この年、延暦寺の衆徒が加賀の国司藤原師高を訴えたことがきっかけでした。
後白河院側もすぐに反撃し、天台座主の明雲を解任し、所領を没収し伊豆に流罪とします。
これを知った衆徒は激怒し、明雲を奪還し後白河院に公然と反抗するに及びました。

その後、京都、東山鹿ヶ谷(京都市左京区)の信西の子・静賢法印の山荘で謀議が行われたとされます。
多田行綱がひそかに清盛邸を訪れ、西光、俊寛らが平氏打倒の謀議を行っていた事を密告したともいわれます。
平家軍は後白河院の近臣である西光と藤原成親を逮捕、西光は斬首され成親は備前に流罪となりその後殺害されました。
比叡山側としてはこれに歓喜し、同盟を約束します。
これにより、院と寺院勢力および平氏との対立が激化、院を孤立化させることに成功しました。

治承三年の政変(清盛クーデター)

治承三年(1179年)11月、清盛がクーデターを起こし、後白河法皇の院政は停止させられます。
関白・基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任、院の近臣の多くが解任されました。
治承四年(1180年)2月、高倉天皇は三歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位します。
3月、高倉上皇は清盛の強い悲願から厳島神社への参詣を計画しますが、石清水八幡などの先例を無視するものとして人々は猛然と反発、民衆の平氏への離反を呼び起こしました。

頼朝挙兵

治承四年(1180年)、治承・寿永の乱が始まります。
後白河法皇の第三皇子・以仁王が、源頼政、足利義房らの計画にのって挙兵します。
自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえた令旨を下し、源氏に決起を促しました。
以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍の攻撃を受け、頼政軍は宇治の平等院で全滅、敗走途中、以仁王は戦死します。

源頼朝は、三善康信ら京都の人々と交流し情報を収集していましたが、以仁王の令旨を受け取り、挙兵を決意します。
治承四年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政や佐々木秀義父子が、平時忠の伊豆国目代・山木兼隆を韮山の屋敷で襲撃し討ち取リます。
8月23日、真鶴付近の石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平家方の大庭景親、伊東祐親ら相模国の軍勢三千余騎と戦って敗北し、安房に逃れますが、武蔵・相模の武士が相次いで頼朝の元に結集、強大な勢力へと成長していきました。
10月18日には、水鳥の羽音に驚いて逃げ出したという説話で有名な富士川の戦いで勝利します。
治承四年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏、美濃源氏らが挙兵して全国各地は源平により動乱状態となりました。
養和元年(1181年)、平清盛は高熱に倒れ、64歳で亡くなりました。
この年から寿永元年(1182年)にかけて、養和の飢饉が発生します。
京都市中では、死者4万2300人におよび、戦闘は休戦状態となっていました。
義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまいました。
寿永二年(1183年)4月、平氏一門は大軍で北陸道に進撃しますが、倶利伽羅峠で義仲軍に惨敗しました。

この頃、頼朝は義仲の勢いを警戒していました。
同じ源氏でしたが、義仲の勢いとその無謀ぶりは、関東で既に地盤を固めていた頼朝にとっては敵対勢力でした。
寿永四年(1184年)頼朝は、弟・範頼、義経を大将とする大軍を派遣、義仲は粟津で敗死しました。
この頃、頼朝は、源氏内部の統制を強化しています。
それゆえ、義経が頼朝の許可なく検非違使、左衛門少尉に任ぜられたことは、統制を乱すものとして許されませんでした。
文治元年(1185年)1月6日、義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると、19日の屋島の戦いで奇襲が成功し平氏は彦島に逃れました。
3月24日の壇ノ浦の戦いが起こり、追い詰められた総大将・知盛の命で、安徳天皇を抱いた二位尼(時子)、建礼門院徳子、経盛、資盛、知盛らは次々に入水し、三種の神器の宝剣も海に沈み、遂に平氏は滅亡しました。

壇ノ浦古戦場址の碑 Wikimedia Commons

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