鎌倉殿と鎌倉幕府誕生

源頼朝が鎌倉殿となっていく鎌倉幕府誕生の経緯を考えていきます。
鎌倉殿とは、鎌倉幕府の将軍、棟梁のことであり、源頼朝の別称としても使われます。
源義朝以降は清和源氏の棟梁を鎌倉家、鎌倉殿、と呼ぶようになりました。
『平家物語』では鎌倉殿とは源頼朝の一人称として、歴史的には源頼朝の別称として使われます。

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鎌倉殿となった源頼朝

源頼朝が鎌倉殿とよばれる鎌倉および関東中心の幕府を設立するに至った背景について考えます。
文治元年(1185年)、平氏が滅亡し、源頼朝はどのように行動したのでしょうか。
富士川の戦いで平氏軍が敗走した時、頼朝は平氏軍を追走し、一気に上洛しようという考えでした。
しかしこれを押し留めたのが、千葉常胤、上総介広常、三浦義澄らの関東有力武士たちでした。
彼らは、鎌倉に戻り、関東に根を張り、基盤づくりをするよう主張、頼朝もこれを受け入れ、兵を帰還させることになりました。
関東においても争いの火種は残っており、敵対勢力を潰さないと彼らも領地を略奪される恐れがあったからでしょう。

頼朝は清和源氏の嫡流としての武士であると同時に天皇を祖とする臣籍降下した上流貴族の子孫でもあります。
上洛し天皇や上皇に仕え政治を行うことを考えていた可能性も高かったでしょう。
しかし、京都での政治を選択せず、鎌倉殿として関東に根を張り独自政権を樹立する道を選んだのは、周りの側近の知恵が生かされた結果だったのではないでしょうか。

鎌倉殿として政権を関東に樹立する兆しは、治承四年(1180年)の侍所設置にも現れています。
さらにその年、大江広元を別当に中原親能、二階堂行政、足立遠元、藤原邦通の4人を寄人に任じて公文所が設置されます。
元暦元年(1184年)には鎌倉に問注所が設置され、鎌倉殿として幕府機能が整備されていきました。
特に、大江広元は、当初朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府及び公文所の政所初代別当を務め、幕府創設、鎌倉殿成立に貢献しました。
もう一人の側近が、三善康信です。
三善康信は、太政官の書記官役を世襲する下級貴族の出身です。
三善康信は問注所の初代執事に就任しています。
このように、武士の棟梁、政権権力として鎌倉殿の地位を確立していきました。

義経の追放

中尊寺所蔵の義経像 Wikimedia Commons

源義経は、義朝が近衛天皇の皇后・藤原呈子に仕え召使いだった常盤御前に生ませたのが義経(幼名:牛若丸)です。
常盤御前とともに平氏に捕らえられ、牛若丸と呼ばれた義経は京都の鞍馬寺にのぼり稚児となります。
15歳になると牛若丸は一人鞍馬寺を抜け出し、陸奥国の藤原秀衡のもとにたどり着き、頼朝挙兵の一報を聞いて頼朝の元へ馳せ参じます。
そして、富士川の戦いの直後、静岡の黄瀬川の宿で感激の対面を遂げた、というのが説話として残る義経です。
しかし、これは説話によるものであり、義経の実像はほとんど不明だと言えるようです。
頼朝とは違い、京都で半生をすごした義経は、関東武士としての気質が殆どないため、京都の公家や上皇に好かれたとみられます。

■腰越状
腰越状とは、元暦二年5月(1185年)、平家滅亡後、義経が頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていた時、満福寺で無実を訴えて大江広元宛に出したと伝えられる書状です。

「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。
(中略)
こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
(中略)
甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。
(中略)
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。

我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿

Wikipedia 腰越状現代訳

頼朝と異母兄弟・義経との仲が険悪化するのは、元暦元年(1184年)、義経が義仲を倒して入京し、院から検非違使・左衛門少尉に任ぜられたことに端を発する、と言われています。
また、頼朝は梶原景時に命じ、最大の功臣であった上総介広常を殺害、粛清しています。
着実に、頼朝独裁体制を築きつつありました。

治承六年・京都では養和二年(1182年)、政子が男子・頼家を出産します。
待望の世継ぎである長男の誕生は、義兄弟でしかない義経、義仲の存在が障害となるに十分な理由となります。
いつの時代も後継問題は争いの原因となっています。
特に権力を掌握した段階での後継問題は、騒乱となり、悲劇を生むことが多くありました。
例えば、秀吉の秀頼と秀次後継問題、天武天皇と大友皇子、持統天皇と大津皇子などが有名です。

■義経挙兵
元暦二年(1185年)10月18日、頼朝は刺客・昌俊を放ち義経を暗殺しようとしますが、昌俊を捕らえこの暗殺が頼朝の命であることを聞き出すと、行家と共に京で後白河法皇に奏上して、頼朝追討の院宣を得て挙兵しました。
しかし、京都周辺の武士達も義経らに集まらず、さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから窮地に陥ります。
12月、頼朝は、側近・大江広元の提案で、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」と兵糧米の徴収を朝廷に認めさせました(文治の勅許)。
義経は熊野から京都に入り、大寺院に匿われながら、やがて伊勢、美濃を経由し奥州へ入り、妻と子らを伴って藤原秀衡の居る平泉に身を寄せました。
■勧進帳
ニセ山伏になりすました義経一行が、加賀国安宅の関で、弁慶の機転と富樫氏の武士の情けで難を逃れる物語は、『義経記』や能『安宅』、歌舞伎の『勧進帳』などで大衆の人気となります。

義経と勧進帳
源義経と武蔵坊弁慶と富樫左衛門 Wikimedia Commons

文治三年(1187年)10月、藤原秀衡が病没すると、頼朝は義経逮捕を命じる院宣を発布、これに反応した秀衡の跡継ぎ・泰衡は、義経を急襲して、遂に義経は自殺しました。
源義経、享年31歳でした。
義経のいなくなった奥州藤原氏も頼朝によって制圧されました。


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