鎌倉殿と御家人

頼朝と義経
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富士川の戦いで戦わず勝利した源頼朝軍は、一挙に都へ攻め上ろうという考えを重臣の反対で覆し、鎌倉に戻り関東の地固めに入ります。
頼朝の背後を脅かす常陸国・佐竹氏を討伐し、関東で頼朝に敵対する勢力はほとんどいなくなりました。

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御恩と奉公

頼朝は、平家を倒し関東において最高権力者の象徴である、鎌倉殿に登りつめました。
そして一番最初に鎌倉殿・源頼朝が行った大きな施策が、本領安堵と論功行賞でした。
御恩と奉公、アメとムチ、権利と義務の関係でいうと、御恩=権利の保証です。
初代侍所別当に任ぜられた三浦義澄の甥・和田義盛は、鎌倉の屋敷への入御儀式に際し、居並ぶ御家人311人の前で帳簿にその名前を記録していきました。
和田義盛の侍所別当職は、建久三年(1192年)梶原景時に引き継がれました。
これは、侍所別当の地位を梶原景時に奪われたという説もあります。

御家人とは、平安時代は武士に仕える者を家人とか郎党とよんでおり、この頃から、主君として鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。
鎌倉時代から室町時代にかけて御家人というよびかたは継承され、江戸時代になっても御家人とよばれることもありましたが、意味合いはかなり変異していきました。

御家人は御恩を受ける代償として、鎌倉殿への忠節と奉公の義務を負うようになりました。
この頃の奉公は、頼朝軍に参加して戦い、鎌倉の館に出仕して警備を担うことでした。
このような御恩と奉公の主従関係が、鎌倉時代の根幹を形作っていきました。

平家の動き

福原(神戸市)に遷都を決行した平清盛は、不評を買い、再度京都に都を戻しました。
さらに、治承四年(1180年)12月には、南都焼討を行います。
南都焼討とは、平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件です。
反平氏運動の拠点となっていた大衆(後の僧兵)という南都寺社勢力の弾圧討伐を目的として焼き討ちが強行されました。

全国各地で平家に反抗する武士が立ち上がる中、高倉上皇が亡くなり、ついに平清盛が熱病に冒され死亡します。
永久六年(1118年)、伊勢平氏の棟梁である忠盛の嫡男として生まれた平清盛は、平家滅亡を知る前にこの世から去ることになりました。
治承六年/養和ニ年(1182年)2月のことでした、享年64歳。
清盛の後継は宗盛に託されます。
平宗盛は、清盛の三男で、母は清盛の継室・平時子です。
治承六年/養和ニ年/寿永元年は、京都で4万人を超える死者を出したといわれる養和の飢饉の影響もあり、大規模な軍事行動はなされず、戦況は膠着状態となります。

鎌倉殿と源氏の動静

鎌倉殿以外の源氏が、どのような動きをしていたのか、みていきましょう。

源義経(九郎判官)

源九郎判官義経として知られる源義経は、判官贔屓の武将として世の同情を誘い受け入れられ、今日でも英雄伝説化している存在です。
源義経は、源義朝と妾・常盤御前の三男、義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれました。
平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に稚児として預けられますが、一人密かに鞍馬寺を抜け出し各地を放浪し、ついに平泉へ下り、奥州藤原氏の藤原秀衡の庇護を受けここに落ち着きます。

治承四年(1180年)8月、義経は頼朝の挙兵を知るや馳せ参じ、富士川の戦いで勝利した頼朝と駿河国黄瀬川の陣で感激の対面を果たします。

実は源義経に関して、『吾妻鏡』『平家物語』などの史料では、上記の内容しか記述がないのが実情です。
有名な弁慶と義経の逸話や、牛若丸(遮那王)の英雄伝説などは、史実と大きくかけ離れており、室町時代に書かれたと見られる軍記物語と御伽草子との中間に位置する作者不詳の作品『義経記』によるものがほとんどです。
義経の前半生については、ほとんどわかっておらず、腰越状などから推察すると、東国武士団とは関係のない隠遁生活をおくり、土民として武芸を鍛え抜かれ、少数精鋭部隊の指揮官として磨き上げられていったと思われます。

寿永ニ年(1183年)5月、越中と加賀の国境・倶利伽羅峠の戦いで平家軍を壊滅させた木曾義仲が、安徳天皇と三種の神器を奉じた平氏を都落ちに追い込み京都に入ります。
後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲、第三を行家とするなど、義仲を低く評価し、頼朝の上洛を促しました。

8月、義仲は、皇位継承問題で次期天皇に自らが擁立した以仁王の子・北陸宮を据えることを主張しますが、あっさり拒否されます。
そして、寿永二年10月、後白河院が義仲の頭越しに北陸を除く東海・東山道の国衙領、荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ、という寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、頼朝は「朝敵」の汚名を挽回し、義仲との対立は決定的となりました。
頼朝は、義経と中原親能を指揮官として都へ送ります。
木曾義仲は、法皇がたてこもる法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉し、寿永三年(1184年)1月15日、自らを征東大将軍に任命させました。
義仲は京都の防備を固めるものの、法皇幽閉などにより既に世間の不評を買っていたため、義仲に追従する兵はほとんど無く、北国に逃げる途中、宇治川や瀬田での戦いに惨敗し(宇治川の戦い)、源頼朝が送った源義経とその兄・範頼の軍勢により、粟津の戦いで討伐されました。

一ノ谷の戦い

寿永三年(1184年)1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と三種の神器奪還の勅令を出し、平氏一族の所領500余ヶ所が頼朝へ与えられました。

そして、義仲対頼朝の源氏同士の争いが起きる中、寿永三年/元暦元年1月、一旦北九州の太宰府に落ち延びていた平氏は、みるみる勢力を立て直し、瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、大輪田泊に上陸、福原まで進出していました。
平氏は数万騎の兵力を擁するまでに回復し、同年2月には貴族や義仲との連合軍を画策し、京奪還を起こすまでに計画を練っていました。

寿永三年/元暦元年(1184年)2月4日、義経は搦手軍1万騎を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛、有盛らを撃破し、範頼は大手軍5万6千余騎を率いて出征しました。
平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。

2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平家へ後白河法皇からの使者がやってきて、和平を勧告し、交渉中は武力を行使しないよう命じました。
平家はこれを真に受けたため、警戒を緩めていたところに源氏の総攻撃があり、戦いの勝敗を決したといわれています。(諸説あり)

2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲すると、平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となりました。

上総介広常の最期

寿永二年(1183年)12月末、源頼朝は、梶原景時に命じて上総介広常を、双六をしている最中、謀反を企てたという理由で誅殺します。
さらに、嫡男・能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配されました。
しかし後日、上総介広常が無実だったことが判明しています。
『愚管抄』によると、頼朝が後白河法皇との対面で語ったところでは、広常は最大の功臣の一人でしたが天皇への忠誠心を持たず、平氏打倒よりも関東の独立心が強かったので殺害した、と述べています。

これで、主な関東有力武士は頼朝の傘下となり、頼朝独裁が強まり、鎌倉殿の基礎が固まりつつありました。

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