鎌倉武士(坂東武者)の関東勢力範囲

坂東武者の成り立ち

平安末期、関東の武士勢力である坂東武者(後の鎌倉武士)は、都から「あずまえびす」といわれ、蔑まれていました。
東国、坂東武者、関東武士の歴史は、7世紀、白村江の戦いで防人として九州の外敵防御に徴兵された時代に遡ります。
更に遡ると景行天皇の時代、日本武尊の東夷征伐の記録が関東各地の神社伝承に残っています。

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東北地方にいた蝦夷に対抗するため、防衛最前線の基地としての役割を担い、東国から多くの兵力が徴用されていました。

関東地方には多くの前方後円墳が残っています。
特に顕著なのが群馬県、埼玉県、千葉県です。
山の裾野に広がる関東平野という立地が巨大古墳を生んだといわれています。

東海地方以東は、奈良の大和政権とは異質な人々がいる空間とみられており、三関(関ヶ原・鈴鹿・愛発)は政情不安の際、堅く閉められていた程です。
三関を閉じる固関は、東国からの敵の侵入、都からの逃亡を防ぐための措置でした。

その後、関東で武士の源流といわれる清和源氏が誕生し、武士の勃興を象徴する平将門の乱が起きます。

藤原道長の時代が終わり、長元元年(1028年)、平忠常は安房守平維忠を殺害、上総国の国衙を占領してしまいます。
反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広がる大乱に発展しました。
いわゆる平忠常の乱です。

関東武士の勢力範囲

平安末期から鎌倉時代にかけて、関東の武士、坂東武者についてその勢力を見ていきましょう。

・土肥実平:相模国(湯河原・真鶴)
土肥実平は相模国国府の西北、中村庄や足下郡土肥郷を本拠とする中村氏の一族です。
石橋山の戦い後、実平が用意した船で、頼朝軍は真鶴から房総半島の安房国へ脱出しました。

・大庭景親:相模国(相模原台地)
大庭御厨(相模国高座郡)とよばれる相模国最大の伊勢神宮の荘園があり、ここに本拠がありました。
大庭景親が清盛の配下になり、その威光を背景に勢力を拡大し、三浦氏や中村氏を圧迫していました。

・三浦義明/義澄/義村:相模国衣笠(三浦半島)
三浦半島が三浦氏の勢力地域です。
和田義盛はその三浦一族で和田の里(安房国和田御厨か)に本拠があったことから和田と名乗りました。
三浦氏は、桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の一つで横須賀市衣笠が本拠です。

・上総介広常:上総(千葉県中東部)
上総介広常は平忠常の乱を起こした平忠常の子孫です。
千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町、東金市が勢力範囲です。

・千葉常胤:下総(千葉)
千葉氏も平忠常の一族で、伊勢神宮の荘園・相馬御厨(茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市)が有名な領地です。

・小山氏:下野国(栃木)
寒河御厨とよばれる広大な領地を有していました。
寒河御厨は、現在の栃木県小山市から下都賀郡野木町にかけての思川流域に比定されています。
小山政光の妻が八田氏の娘で寒河尼とよばれる頼朝の乳母の一人です。

・新田氏:上野国(群馬)
源氏系足利氏である新田氏が勢力を伸ばしており、新田義貞が有名です。

・武蔵七党:武蔵国(東京)
武蔵七党とよばれる同族集団の横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹などが群雄割拠していました。

治承4年(1180年)の関東 Wikipedia

鎌倉殿の誕生

坂東武者
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)Wikipedia

治承四年(1180年)8月、石橋山の戦いで敗北した源頼朝一行は、土肥実平が用意した船で、真鶴から房総半島の安房国へ脱出しました。
大庭景親軍に本拠・衣笠を攻め落とされ三浦義明を失いましたが、三浦義澄と義村は、安房国に逃れていました。

千葉の大豪族・千葉常胤と上総介広常のうち、千葉常胤はただちに下総国衙の目代を攻め落として頼朝軍に参陣しました。
一方、上総介広常は、2万の軍勢を率いて遅れて参陣しますが、頼朝に遅れたことを詰問され、それがかえって頼朝の力量が大きいことを評価することになり、全面帰順することになったと、いわれています。

武蔵国に入ると、大庭景親軍に従っていた畠山重忠、河越氏、江戸氏など有力豪族が次々と頼朝に参陣することになりました。
10月6日、源頼朝は、ついに待望の鎌倉に入ることになりました。
決起当初は奇跡的に生き延びた頼朝ですが、坂東武者の代表である源氏の棟梁として、亡き義朝による関東武士団の再興を一身に背負い、ここまで大勢力を得るに至ります。

千葉常胤、上総介広常の思惑

「源平合戦の虚像を剥ぐ」川合康 講談社学術文庫によると

治承四年10月、富士川の戦いで平氏軍が敗走し、頼朝が平氏軍を追って上洛を主張するのに対し、千葉常胤や上総介広常がそれを諌めたのも、上記の藤原氏との勢力争いがその背景にあったといいます。

頼朝はこの諫言に従い、常陸国の佐竹氏攻略に向かうことになり、ここが鎌倉幕府成立の重要な局面になったと、著者はいいます。

では、なぜ千葉常胤や上総介広常は頼朝のもとに参向したのであろうか。
下総国の千葉氏は、十二世紀前半には本領千葉荘のほかに立花郷や相馬御厨・国分寺などの所領を有していたが、保延二年(1136)に立花郷と相馬御厨は国守藤原親通に官物未進を理由に没収され、以後、下総国に急速に勢力を伸張させた藤原親通の子孫に圧迫される状況におちいっていた(野口実「十二世紀における坂東武士団の存在形態」)。
下総国内で一大勢力を築きあげた藤原氏の最大の被害者こそ、同国の最有力在庁であった千葉氏だったのである。

いっぽう、上総国最大の武士団であった上総氏は、玉前荘を中心に上総国内はもちろん下総国にまで勢力をもつ両総平氏の族長の地位にある武士団で、もちろん誇張はあるにしても、治承四年九月十九日に上総介広常は「二万騎」をひきいて頼朝のもとに参向したと「吾妻鏡」が伝えるほどの有力武士であった。
治承三年(1179)十一月、平清盛が後白河院を鳥羽殿に幽閉してクーデターを強行したさい、上総国司に平氏家人藤原忠清を補任したが、上総介広常は、じつはこの藤原忠清と深刻な対立状況におちいっていたことが指摘されている。(野口実「平氏政権下における坂東武士団」)。
つまり、広常もまた千葉氏と同様に、国内での地位や地域社会における現実的利害と密接にかかわって、頼朝の挙兵に参加するという政治的選択をおこなったのである。

「源平合戦の虚像を剥ぐ」川合康 講談社学術文庫

鎌倉殿の誕生

源氏の鎌倉進出のはじまりは、源頼義に遡ります。
源頼義は、清和源氏経基流・河内源氏の祖・源頼信の嫡男です。

源氏系図

平忠常の乱に功績のあった頼信・頼義父子は、鎌倉の大蔵(大倉)にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党を平直方から譲り受け、頼義は平直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となっていきました。
この源氏の由緒正しき鎌倉に拠点を構えることにした源頼朝は、鶴岡八幡宮を海沿いから現在の山側に移し新居を構えました。

伊豆山権現や熱海付近に隠れていた北条政子も、まもなく鎌倉に移動してきましたが、すぐに平維盛を総指揮官とする頼朝追討軍が、駿河国まで迫ってきたとの報せを受け、維盛迎撃へと向かいました。

富士川の戦い

頼朝追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛らによる追討軍が福原を出発したのは9月22日、総大将の維盛と参謀長の藤原忠清が日が悪いから吉日を選ぶ選ばぬで内輪もめの喧嘩があり、京を発したのは9月29日になってしまいました。

同じ源氏一族の甲斐源氏・武田信義、安田義定ら挙兵して甲斐国を制圧し、8月25日には、石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟・俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて戦いました。
10月14日には、富士山の麓で維盛軍の到着を待ちかねて出陣した目代・橘遠茂の3000騎を撃破しました。

10月17日、武田信義の使者が、維盛への書状を携えて訪れ、「かねてぜひお目にかかりたいと存じておりましたが、幸いにも宣旨の使者として来られたので、当方から参上したいのですが道も遠く険しいので、ここはお互い富士山の麓、浮島ヶ原で待ち合わせお目にかかるとしましょう」という不敵な内容だったため、参謀長の藤原忠清が激怒し、兵法に背き、2人の使者の首を斬ってしまいました。

同日、頼朝は相模国豪族波多野義常を討つために派兵します。

10月18日、大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとしますが、行く手を阻まれ、相模国で軍を解散し逃亡、伊東祐親・祐清勢も船で維盛軍に合流しようとしますが捕らえられました。

鴨長明「方丈記」によると、治承四年(1180年)から翌年にかけて、大凶作、大飢饉が起きていました。
養和の大飢饉といわれるものです。
特に西日本ではその被害が大きく、兵糧の調達がうまくいかなかったため、兵を募っても集まらず士気も低下していました。
そのため、平家方の士気は低下し、まともに戦える状態にはありませんでした。
脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう状態でした。
東征軍は富士川からの撤退を決定、その夜、富士沼(浮島ヶ原)に集まっていた水鳥が何かに反応し、大群が一斉にパッと飛び立ちました。
『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とあります。
「すわ、敵軍の襲来か!」
東征軍は大混乱に陥り、我先にと遁走していきました。
いわゆる「水鳥の羽音」の逸話です。

このように富士川の戦いでの勝因は、甲斐源氏・武田信義軍の戦力と士気の高さであり、その反対に平家軍は、維盛や藤原忠清といった指揮官トップの統率能力の低さによる進軍の遅れや士気の低下でした。
さらに、西日本の飢饉による兵糧不足も追い打ちをかけました。

そして、大きな流れとして、平氏政権への民衆の不満、武士の抵抗、つまり、全国的な地方武士の中央政権への抵抗、反乱があります。

結果的に、富士川の戦いで頼朝軍は戦わずに勝ったのでした。
ここでも頼朝軍の運の良さを物語っていました。

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