北条氏と執権政治

北条氏と執権政治
大日本六十余将の時政。画:歌川芳虎 Wikimedia Commons

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北条義時と得宗家

北条義時により、鎌倉時代に興隆した北条氏ですが、その出自は明らかではありません。
桓武平氏の平直方を始祖と名乗っていたことは確かなようですが、正統の系図は残っておらず、その出は名門とか大勢力と呼べるものではなかったというのが通説です。

治承四年の頼朝挙兵時、北条氏の軍勢は50騎前後であったとみられ、伊東祐親の三百騎とは大きな差がありました。
頼朝が大豪族の北条氏の力を借りて平氏打倒に乗り出したということではなく、北条時政、義時親子が源氏嫡流の貴種・頼朝を担いで千載一遇のチャンスを得ようとした、というのが実情のようです。

そんな弱小軍団を執権まで昇格させたのが北条義時です。
父親の北条時政とともに頼朝挙兵に参加して、承久の乱で勝利し、頼朝の事業を発展、昇華させたのが北条義時です。
義時は得宗家と呼ばれ、以後の北条氏嫡流の呼称となりました。
義時の父・時政を初代得宗とし、2代義時から泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時まで9代を得宗と呼びました。

貞応三年(1224年)6月13日、北条義時は、急死します。享年62歳でした。
義時の死因については、急病説、毒殺説、暗殺説など諸説ありますが、確実なものはありません。
62歳というのは当時の寿命が50歳だったことを考えれば、急病というのも納得できる年齢ではあります。

そして、義時急死によって、後継問題が発生します。
嫡男・泰時が執権になると見られていましたが、継母で義時の後妻・伊賀の方(伊賀氏)が中心となって実子・政村を執権に立て、一条実雅を将軍に擁立しようと謀ります。
しかし、北条政子が大江広元の意見を参考に泰時を支持、後継に決まりました。

伊賀の方と伊賀光宗・一条実雅は流罪となりました。(伊賀氏の変)

北条氏系図
北条氏系図 独自作成

評定衆と御成敗式目

嘉禄元年(1225年)、鎌倉殿の重臣・大江広元が亡くなり、続けて北条政子も亡くなります。
享年、大江広元79歳、政子69歳。
一時代を築いた鎌倉殿の権力者が世を去り、時代の節目となりました。

そこで北条泰時は、集団指導体制を取ることになり、11人の評定衆を選出し政所に出仕させ、執権2人を加えた13人の評定会議を設置します。
この評定衆は、1199年の鎌倉殿の13人の合議制が基礎となり、摂家から迎えた鎌倉殿の摂家将軍・藤原頼経を筆頭に、有力御家人による合議制で設置されたものです。

現代の議会に相当するものが評定衆なら、その議会の法律にあたるのが御成敗式目です。
御成敗式目は、源頼朝以来の先例や、泰時の呼ぶ「道理」など、武家の慣習や道徳をもとに制定された、武家政権のための法令です。
これは、貞永元年(1232年)に成立し、全部で51条から成る日本初の武家法です。
御成敗式目は、鎌倉・室町幕府の基本法として長期化にわたり武家法として利用され、追加法令も多く発布されました。

北条時頼の登場

御成敗式目が完成した貞永元年(1232年)、後堀河天皇は21歳で2歳の四条天皇に譲位します。
この異例の譲位の原因は天変地異、つまり天候不順という異常気象によるものだといわれています。
どうもこの裏には、藤原氏の外戚への策謀があったようです。
四条天皇の母親・中宮九条竴子は九条道家の娘で、その舅の西園寺公経と共謀して外戚関係を結び九条家の勢力を回復しようとしたのです。

その四条天皇も仁治三年(1242年)、12歳の若さで急死します。
西園寺公経と九条道家は、外戚の忠成王(倒幕消極派)を推挙するよう鎌倉幕府に伝えますが、鎌倉幕府の将軍泰時はこれを拒否し、倒幕派の順徳上皇側の邦仁王が即位、後嵯峨天皇になります。

この後継選びは、承久の乱により幕府と朝廷の力関係が逆転したことを物語っています。
「天皇御謀叛」という言葉が用いられるようになるのも鎌倉時代の後期からであり、まさに承久の乱が朝廷と幕府との権力関係が入れ替わった画期となったのです。

仁治三年(1242年)6月、執権・北条泰時は60歳で亡くなります。
泰時の子・時氏は既に亡くなっていたので、時氏の子・経時が執権となりました。
寛元二年(1244年)、将軍・頼経が6歳の息子・頼嗣を元服させ将軍に就任させました。
しかし、寛元三年(1245年)経時が病気に倒れ、翌年此の世を去りました。享年21歳でした。
後継の執権には弟・時頼が就任しました。

時頼は、頼経を押し立てて幕府の実権を奪おうとした、叔父・光時等の名越氏一族、後藤、千葉氏等の評定衆、問註所執事・三善氏等の謀略を打破し、光時を追放、光時の弟・時幸を自害させます。
頼経は京都に送られ、ここに鎌倉幕府の後継を巡る陰謀は解消しました。

宝治元年(1247年)、宝治合戦が起きます。
三浦氏当主・三浦泰村は北条氏への反抗の意志はありませんでしたが、弟の三浦光村は反北条の強硬派でした。
三浦氏との和解を模索する時頼らに対し、安達景盛が主導となって、安達氏による三浦氏への挑発が続きます。
遂に、安達景盛は、三浦氏と対決するため泰盛を先陣として一族に出撃を命じます。
奇襲を受けた三浦泰村は館に立て籠もって防御態勢をとり、三浦側には毛利季光を始め将軍派の御家人達が集まりました。
三浦泰村以下の三浦氏一族500余人は捕らえられ頼朝の墓所の法華堂で自害し、更に下総の千葉秀胤は追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害しました。
これにて三浦・千葉という鎌倉幕府最大級の豪族が滅亡しました。
この宝治合戦にて、将軍側近勢力が一掃され、北条得宗家の独裁体制が整いました。



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