鎌倉殿の13人と承久の乱

後鳥羽上皇 Wikimedia Commons加工

鎌倉殿の13人

いわゆる鎌倉殿の13人とは、頼朝の死後、近臣による合議制の裁判を行うことになる13人です。
鎌倉殿の13人の名前は下記のとおりです。

  • 北条義時 北条時政の次男、鎌倉幕府の二代執権、鎌倉殿の13人の筆頭です。承久の乱の主役です。
  • 北条時政 北条政子、北条義時の父で、鎌倉幕府の初代執権です。別名北条四郎
  • 大江広元 下級貴族出身で鎌倉幕府及び公文所の政所初代別当であり、行政長官です。頼朝の懐刀です。
  • 三善康信 鎌倉幕府の初代問注所執事であり、下級貴族出身です。武士の政務補佐として頼朝の元で活躍します。
  • 中原親能 大江広元の兄であり、鎌倉幕府の公家との交渉で大きな成果を上げた文官御家人です。
  • 三浦義澄 頼朝の宿老として一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる御家人です。
  • 和田義盛 三浦氏の一族、初代侍所別当で、平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てますが和田合戦で敗北します。
  • 八田知家 保元の乱で源義朝について戦い武功をあげる御家人です。
  • 比企能員 源頼朝の乳母である比企尼の甥ですが、北条政子と対立、比企能員の変により比企一族は滅亡します。
  • 梶原景時 頼朝に重用され侍所所司、厩別当になりますが、頼朝死後に追放され滅ぼされました(梶原景時の変)。
  • 安達盛長 蓮西ともいい、頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており古くから頼朝に仕えています。
  • 足立遠元 公文所5人の寄人の1人に選ばれ、左衛門尉に任ぜられています。
  • 二階堂行政 藤原南家流の下級貴族出身の官人です。母方が熱田大宮司家であった縁により頼朝に仕えました。

これら鎌倉殿の13人の合議によって訴えを裁断することにし、頼家や「その外の輩」が訴訟を扱えないようにしました。
頼家が若年だということもありますが、一番重要なのは、頼家独断および頼家近臣の排除です。
頼家近臣とは、小笠原長経(弥太郎)、比企宗員(三郎)、比企時員(弥四郎)、中野能成、和田朝盛、等のことです。
これら近臣は、比企氏一族や比企氏に縁のある人々でした。
比企氏は、比企尼が頼朝の乳母であったことから、頼家も比企尼の娘が乳母になっており、深い縁で結ばれていました。
比企能員をはじめとした比企一族が、乳母つながりで頼家との関係を強めていたことがわかります。

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大江広元

大江広元は、久安四年(1148年)又は康治二年(1143年)に生まれ、嘉禄元年(1225年)に亡くなっています。

源頼家・実朝と北条政子

源頼朝には北条政子との間に、源頼家、源実朝の、男子2名がいます。
正治元年(1199年)1月、源頼朝は53歳で亡くなります。
急死であったとみられます。
頼朝の死因について、詳細はよくわかっていませんが、落馬が原因で死に至ったという説もあります。
史料も頼朝の死について殆ど触れず、急死であったことが分かる程度です。

頼朝の跡継ぎは、鎌倉殿の嫡男・頼家です。
頼家は、年齢18歳の若さで将軍になります。
朝廷から鎌倉幕府の跡継ぎとして、日本国総守護、総地頭を承認する文書が届き、頼家は朝廷からも後継者として認められました。
一条家一門が逮捕、追放される「三左衛門事件」が発生し、若輩の頼家に任せることに不安を感じた近臣と北条政子は、鎌倉殿の13人の合議制で裁判することを決定しました。
鎌倉殿の13人とは、上記のとおりです。

梶原景時の変

梶原景時の変につながる最初の騒動が発生します。
鎌倉殿の13人による合議制成立の半年後、正治元年(1199年)の秋10月25日、御所の侍所・結城朝光が、頼朝の死を悼み「忠臣二君に仕えず」と述べます。
梶原景時がそれを頼家への不信表明のように頼家に忠告したため、朝光が誅殺されそうだという話を御所に勤める女房・阿波局が朝光に告げました。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、28日、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時と対決することを誓い、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業が糾弾状を作成し訴状を読み上げました。
訴状は和田義盛、三浦義村らから大江広元に渡り、頼家に提出するよう要請しました。
しかし、広元は頼朝に対する景時の忠節を考慮し、訴状提出を躊躇しますが、結局11月12日、頼家に提出されました。
頼家は連判状を景時に渡して弁明を求めますが、景時は抗弁せず、翌日には一族を引き連れて相模国一宮(神奈川県寒川町)の所領に引き下がってしまいます。
12月9日に梶原景時は、一端鎌倉へ戻りましたが、18日、景時は鎌倉を追放され、鎌倉の邸は取り壊され、播磨国守護に結城朝光の兄小山朝政が任命されることになりました。
景時はここにおいて失脚したのでした。

正治二年(1200年)1月20日、梶原景時が一族を連れて一宮の本拠を脱出したという知らせが入ります。
この景時の行動は謀反によるものだということになり、追討軍が派遣されますが、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた在地武士たちに発見されて襲撃を受け、合戦となりました。
梶原景時をはじめ、子の景茂・景国・景宗・景則・景連、景季、景高ら一族はほとんど討ち死にしました。

『愚管抄』 の中で慈円は、梶原景時を死なせたことが、頼家自らの破滅につながったと評しています。

頼家追放

この頼家追放については、政権寄りの『吾妻鏡』よりも真実に近いと思われる『愚管抄』を参考に説明いたします。

頼家は、病気になり自ら出家し、長男・一幡を跡継ぎにすることを決めます。
しかし、一幡を後継にされては後援者の比企氏が全権を掌握してしまうため、それを防ぐために北条時政は、比企能員を殺害、側近を派遣して病床の頼家を御所から連れ去り、大江広元の屋敷に移してしまいました。(比企能員の変)
頼家を連れ去れったと同時に、一幡も殺害しようと目論みますが、間一髪で逃げ延びることができました。
病気が回復した頼家は、この出来事に怒り、太刀を手に立ち上がりますが、政子が押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまいました。
その後、一幡も捕らえられ、殺されました。

頼家は伊豆の修禅寺に幽閉され、元久元年(1204年)7月、23歳で亡くなりました。
『愚管抄』によれば、入浴中を襲撃され、激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したと書かれています。
『吾妻鏡』は、その死因について語ることはありません。

鎌倉幕府と源氏・北条氏
源氏系図・鎌倉幕府 独自作成

和田合戦

建暦三年(1213年)5月、和田合戦が起こります。
鎌倉幕府における有力御家人の和田義盛が反乱を起こします。
頼朝の死後、梶原景時、比企能員ら、鎌倉殿の13人であった御家人が次々に討伐され、更に頼家が幽閉された後に死亡、北条時政・義時父子によって実朝が将軍に擁立されます。
執権北条氏が幕府の実権を掌握し始めました。

頼家の遺児を担いで北条義時を排除しようという陰謀が発覚、和田義盛の甥・胤長、義盛の子・義直、義重が逮捕されます。
義盛は三浦を含む一族98人を連れて御所に押しかけ、赦免を懇請しますが、胤長は陸奥国に流罪になり、屋敷も没収されました。
一族の若武者は激怒して実力行使を主張、義盛も戦闘態勢に入りました。

始めは姻戚関係にあるため和田義盛側についていた三浦義村は、戦闘の直前に義時側に寝返り、それが影響し和田義盛は敗死しました。
この和田合戦により、鎌倉殿の13人の一人であった和田義盛が消え去りました。

ここにおいて、北条氏の執権体制が確立しました。

承久の乱

実朝暗殺

建保七年(1219年)1月27日、雪が60cm以上降り積もるなか、鶴岡八幡宮では実朝の右大臣就任の拝賀の式典が行われていました。
夜になり参拝を終えて公卿が立ち並ぶ前を、実朝が通り過ぎようとした時、頭布を被った公暁が実朝に襲いかかり、「親の敵は、かく討つぞ」と叫んで斬りつけ、その首を打ち落としました。
実朝28歳のことでした。
同時に3、4人の法師が供の者たちを追い散らし、側近の源仲章を北条義時と間違えて切り殺しました。
式典の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったそうです。

公暁は食事の間も実朝の首を離さず、三浦義村に使者を出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送ります。
義村は偽って承諾の返事をし、公暁は義村宅に向かう途中で討手に遭遇し、討ち取られました。享年20歳でした。

結果的に源氏の世継ぎとなるべき2名の若者が、同時に世を去ったことになります。
この暗殺事件の首謀者について、通説は、最大の受益者である北条義時による計画というものです。
これには異説もあり、三浦義村が首謀者であるという考えもあります。

承久の乱(承久の変)

承久の乱(承久の変)の首謀者が後鳥羽上皇です。
さぞかし雅な方と思ったら、自ら刀鍛冶に自分の刀を作らせるほどの刀剣愛好家で、笠懸や相撲が得意な武闘派で怒りっぽく、気にいらないとやたらと処罰したとか。
武力を背景に設立された鎌倉幕府にとって、後鳥羽上皇は悩みのタネでした。
1218年、幕府から後鳥羽上皇に意外な申し入れがありました。
実朝の後継者を天皇家から迎えたいという提案です。
上記に記載したとおり、鎌倉幕府内では御家人の間で内紛が続いていました。
後鳥羽上皇は天皇の権威によって安定し発展する、と考えていました。
『愚管抄』によると、後鳥羽上皇は源氏の子供を鎌倉幕府の後継者にすると約束します。

しかし、実朝が暗殺されてしまったのです。
これも上記に記載したとおり、暗殺者は実朝の甥・公暁、後継問題が原因でした。
実朝がいなくなって焦ったのは、義時や政子で、源氏の血筋が絶えてしまいます。
後鳥羽上皇に対し、後継者を早く送ってほしいと催促の手紙を送ります。
上皇側は「向かわせるが今すぐのことではない」と約束に答えようとせず、摂津の荘園の地頭職解任を幕府に要求するなど、幕府に揺さぶりをかけてきたのです。
鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の要求には従わない、という結論に達しました。

そして、Noを突きつけられた後鳥羽上皇は怒りに震えます。
さらに、刺激する出来事、京都で御家人が謀反騒ぎを起こしたのです。
その騒ぎにより、火が大内裏に燃え移り、宝物が消滅してしまいました。

承久三年(1221年)、京都にいる幕府側御家人を籠絡し、味方に引き入れたのが三浦胤義という御家人でした。
後鳥羽上皇に従うことを拒否していた伊賀光季を容赦なく襲撃、承久の乱がはじまりました。
上皇側は、鎌倉の御家人達に義時を討ち取らせようと、義時追悼の院宣を発し、使者・押松を鎌倉に派遣します。
上皇は、三浦胤義の兄・三浦義村に期待していました。
義村は、その場で返事はせず、使者・押松を帰らせ、真っ先に鎌倉殿・義時には「すぐに捕まえるべき」と報告します。
義村は、弟には味方せず、義時に忠誠を誓いました。

そして、京都朝廷と戦うという最後の決断のひと押しになったのが北条政子の演説でした。
”頼朝様が幕府を開いたおかげで、皆の官位も収入も上がった。その恩義は山よりも高く海よりも深い”
政子の演説を聞き、御家人たちの幕府を守りたいという気持ちは最高潮に達し、総力戦で後鳥羽上皇と戦うことを決めたのです。

3日後、京へ出陣、わずか18騎で出発しますが、有力御家人が続くと、総勢19万騎に膨れ上がりました。
京都へ東国の武士が攻め込んで来るという情報が入ったのは、4日後の5月26日でした。
後鳥羽上皇は、自分に刃向かうとは考えていなかったのです。
15万の兵を2万の兵で迎え撃つという圧倒的な不利な状況の中、宇治川の戦いで幕府軍を迎えました。
鎌倉軍は、朝廷軍を撃破、大江広元の読みどおりに運んだのです。
後鳥羽上皇は降伏し、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇は流罪となり、幼い仲恭天皇は廃位されました。
鎌倉幕府は、京都に六波羅探題を設置、朝廷を監視下に置きました。

このように、承久の乱によって、朝廷が武士の軍門に降ることになる時代の転換期となりました。

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