室町幕府(室町殿)と足利義満

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足利義満(室町幕府第三代将軍)

足利義満は、室町幕府の第3代将軍です。
足利義満は、正平一三年/延文三年(1358年)8月生まれで、父は室町幕府の第2代将軍・足利義詮で、母は側室の紀良子です。
足利義詮と正室の渋川幸子との間に生まれた千寿王は早くに夭折し、その後、幸子との間に子は無く、貞治五年(1366年)、足利義満は9歳で元服、翌年父・足利義詮の死後将軍家の家督を継ぎ、翌年の応安元年(1368年)、征夷大将軍に任ぜられました。
清和源氏で初の太政大臣になっています。
正妻の唯一の子・千寿王が早逝したことは義満が将軍になるよう運命付けられたと言えるでしょう。

足利義満は、南北朝統一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築きました。
足利義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれました。
室町殿は、後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれるようになりました。

足利義満が将軍の権力を強化するために行った施策として、直轄軍の充実があります。

足利義満は、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直轄の常備軍である奉公衆を設けました。
奉公衆は、直轄軍構成要員が将軍家に奉公する御家人や、在京奉公の御家人とよばれたことから生じた名称です。
奉公衆は、将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍しています。
5部隊に編成され、各部隊長は番頭と呼ばれました。

花の御所

足利義満は、天授四年(1378年)に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営を始め、それが康暦二年(1380年)に完成します。

この広大な敷地に鴨川の水を引き入れ池を造成し、庭に四季の花や木を植えて、花亭とか、花の御所と呼ばれることになりました。
足利義満はここに後円融天皇を招いて落慶供養の儀式を行い、関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催しました。
13代将軍足利義輝が永禄二年(1559年)に斯波武衛家邸宅跡に二条御所を造営・移転したために花の御所は廃止されました。

天授五年/康暦元年(1379年)、幕府の実権を握っていた管領・細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任します。
足利義満は細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握していきます。

足利義満は目の上のたんこぶであった強敵の守護大名の弱体化を目論みます。

土岐康行の乱

美濃・尾張・伊勢三国の守護・土岐頼康が没後、家督を継いだのが土岐康行でした。
足利義満は、土岐氏一族が分裂を画策し、康行には三国の内美濃・伊勢の継承しか許さず、尾張は弟・満貞に与えます。
そして、康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中六年(1389年)、義満は康行討伐の兵を送り、翌年、これを下しました(土岐康行の乱)。
康行は領国を全て没収され、尾張:康行の弟・満貞、伊勢:仁木満長、美濃:土岐頼益:美濃と、三分割されました。

明徳の乱

そして、足利義満にとってもう一人の強敵が、山陰の山名氏でした。

足利義満がまだ幼かった貞治二年(1363年)、山名時氏が幕府に下り、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の5カ国を安堵されます。
その時氏が建徳二年/応安四年(1371年)、死去すると山名氏勢力は興隆し、但馬・和泉・紀伊、さらに、出雲・隠岐・備後も勢力下に収めます。
世の中は、山名氏のことを「六分一衆」または「六分一殿」つまり、全国の六十六国の6分の1を領有したという意味で呼ぶほど勢力を広げました。

山名氏と大内氏、細川氏と対立関係が生じたところを、義満は見逃しませんでした。
義満は、河内に畠山基国を入れ、細川頼之の弟・細川頼元に摂津を与え、山名氏を牽制します。

元中六年/康応元年(1389年)に山名時義が没すると、氏清、満幸に命じて時義の子・山名時熙、氏幸を討伐させます。
しかし、その後、義満は態度を豹変し、満幸を追放、そのかわりに山名時熙、氏幸を免じました。

明徳二年(1391年)12月、氏清軍は和泉から、満幸軍は丹波から京都へ進軍しました。
京都北西部の内野で激戦となります。
氏清は戦死、満幸は逃走し、幕府の勝利となりました。

明徳三年/元中九年(1392年)正月、論功行賞が行われ山名氏の所領は下記の通りとなりました。
山城:畠山基国、丹波:細川頼元、丹後:一色満範、美作:赤松義則、和泉・紀伊:大内義弘、但馬:山名時熙、因幡:山名氏家、伯耆:山名氏幸、隠岐・出雲:京極高詮

11か国の守護領国を保持した山名氏は、明徳の乱で3か国に減らされ一旦衰退しました。

足利義満_明徳の乱
明徳の乱合戦図 Wikipedia

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