応仁の乱の原因や勢力図

応仁の乱の原因を探る

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応仁の乱とは、応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約11年間にわたって行われた室町中期の内乱です。
応仁・文明の大乱ともいわれます。

足利将軍家の継嗣問題と、畠山・斯波両管領家の家督争いが端緒となり、諸国の守護大名が細川勝元率いる東軍と、山名宗全(持豊)率いる西軍に分かれて争いました。

この応仁の乱により、足利幕府の権威は失われ、群雄割拠の戦国時代を迎えることになりました。

応仁の乱の原因は何だったのでしょうか。

応仁の乱の原因①

原因としてまず第一に考えられるのが、経済・財政的な衰退です。
応仁の乱が始まる数年前、長禄三年(1459年)から寛正二年(1461年)にかけて長禄・寛正の大飢饉が発生し日本全国が影響を受けます。
寛正元年から翌年にかけて、餓死者は越前で1万人弱、京都では長禄三年(1459年)8月に台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、寛正二年(1461年)には、大量の流民が京都市中に流れ込み京都にはすでに乞食が数万人いたとされ、この年の最初の2か月で8万2千もの餓死者を出しました。

大飢饉が発端となって、年貢減免を求める地方農民の不満が百姓一揆となり、幕府の無策が重なり、大きな騒乱へと発展していったと考えられます。

応仁の乱の原因②

第二に挙げられる原因は足利幕府の悪政です。

時の将軍は、銀閣寺造営でも知られる第8代将軍・足利義政です。
文安六年(1449年)から文明五年(1474年)の間将軍職にありました。
父は第6代将軍・足利義教、母は日野重子、正室は日野富子です。

長禄・寛正の大飢饉の最中、義政は、花の御所や高倉第の造営を強行、猿楽能見物のために課税を考えるなど、財政を圧迫させています。

足利幕府は、分一徳政禁令(制)を発令します。
分一徳政禁令(制)とは、貸主(銭主)である土倉や酒屋が元金の十分の一を幕府に収めれば、徳政を認めるというものです。
しかし、一揆を恐れて分一銭を納める者がほとんどいなかったため、康正元年(1455年)になると一転して同期間内に借主が分一銭を室町幕府に納付すれば債務破棄を認める規定が追加されました。
これは、室町幕府に分一銭を納めることで個別的に徳政令を認めるというものでした。
つまり、徳政を禁止しておいて、分一銭をとるので「分一徳政禁令(制)」と呼ばれたのでした。

幕府が腐敗し、貧窮した民衆は土一揆に訴え、それはますます暴徒化し、治安の悪化をもたらしました。

義政の後継は、弟の浄土寺門跡義尋を還俗させて足利義視と決定したのもつかの間、寛正六年(1465年)、日野富子が足利義尚を生みます。
歴史の必然なのか、幕府内にこの継嗣問題による内紛が発生、有力守護大名の細川勝元と山名宗全(持豊)がこれに巻き込まれていきます。

足利義尚を将軍にしたいと願う日野富子と足利義視は対立していき、日野富子が山名宗全を頼ると、足利義視は細川勝元を選びました。

応仁の乱の勢力図

応仁元年(1467年)の勢力図 水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲 Wikipedia

応仁の乱における勢力図を見ながら、守護大名の勢力状況を見ていきます。

この勢力図を見ても分かるように、関東八カ国と甲斐、伊豆の十カ国は関東公方の管理地域です。
一方、九州は、九州探題の管轄にありました。
したがって、室町幕府の中央地域のみが管轄された国となっています。
中央地域の国々は、幕府配下の一門であって幕府の身内で、それ以外は外様でした。

  • 山城:山名政豊と畠山政長
  • 大和:興福寺
  • 河内、紀伊、越中:畠山政長、畠山義就
  • 和泉:細川常有
  • 摂津、丹波、讃岐、土佐:細川勝元、細川政元
  • 近江:京極正高と六角高頼
  • 丹後:一色義直
  • 但馬:山名教豊、政豊
  • 因幡:山名豊時
  • 播磨:赤松政則
  • 土佐:細川勝益(勝元の代官)
  • 周防、長門、筑前、豊前:大内政弘
  • 伊勢:一色義直
  • 尾張、越前、遠江:斯波義寛、義廉
  • 三河:細川成之
  • 駿河:今川義忠

守護大名の分裂

足利幕府の悪政が権力低下に繋がり、各地の守護大名にもその影響が及びます。

まず、信濃の守護・小笠原家でお家騒乱が発生します。
嘉吉二年(1442年)に父・政康が死ぬと、小笠原氏惣領職をめぐって従兄の小笠原持長との間で争いが起きます。
持長は結城合戦や嘉吉の乱でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させました。
しかし、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安二年(1445年)、幕府は宗康を信濃守護職に任命しますが、小笠原家では、府中(松本)の持長側と伊那谷の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続きました。

加賀の守護・富樫家では、嘉吉元年(1441年)6月、富樫教家は足利将軍・義教の怒りをうけて、突如として加賀守護を解任されて出奔しました。
富樫氏の家督は当時醍醐寺の喝食となっていた弟・泰高が還俗して継ぎ、守護となりました。
しかし、教家の出奔から6日後に嘉吉の乱で義教が殺されると、教家は幕府の有力者畠山持国の支持を得て家督の奪還をねらいます。
守護の泰高は管領・細川持之を後ろ盾としてこれに対抗すると、富樫家も泰高派と教家派に分裂しました。

越前、尾張、遠江の守護、斯波氏でもお家騒乱が起こります。
享徳元年(1452年)9月、当主の斯波義健が18歳で死ぬと、実子が無かったため、義健と同年齢の義敏が室町幕府及び重臣に推されて跡を継ぎました。
これにより、一門筆頭・斯波持種と守護代で越前の国人領主であった甲斐常治の対立が、主従(義敏対常治)の争いに発展しました。
義敏は常治と元から折り合いが悪く、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする常治の排除を企てていたため、二手に別れて争うようになりました。

このように、鎌倉時代とは異なり、足利将軍が御家人である守護大名の惣領を決めることに介在していました。

そして、守護大名の内輪もめが管領にも波及します。
畠山家は、河内・紀伊・越中・山城を領地に持つ守護大名です。
畠山持国は、足利氏一門の畠山氏出身で、畠山満家の嫡男であり義就の父です。
持国には実子が無く、弟の持富を後継としていましたが、文安五年(1448年)に妾腹の義夏(義就)を召し出し持富を廃して後継とします。
しかし、一部の家臣の反対に遭い、持富は間もなく没しましたが、政長の兄・弥三郎が後を嗣いで義就と争いました。
ここに、血で血を洗う内紛が始まることになります。
政長は弥三郎派の遊佐・神保らの支持を受けて弥三郎の後継となり、義就と激しい戦いを繰り広げます。
寛正五年(1464年)1月、政長はようやく勝利し、京都に戻り、管領に就任します。

御霊合戦

文正二年(応仁元年)1月5日、山名持豊(宗全)邸を借りた義就が義政を饗応、翌6日には政長に屋敷を義就に明け渡す命令が届くまでになり、8日には政長は管領を罷免され義廉に交替させられるなど立場が悪化していきます。
失脚した政長派の家臣たちは、京都市街に火を放ち、酒屋・土倉の略奪を行いました。
15日、山名持豊(宗前)・畠山義就は、将軍義政に圧力をかけ、細川勝元に政長の援助中止を命令、勝元も宗全の義就援助中止を条件に承諾しました。
追い詰められた政長は、18日午前4時頃に自邸を放火、北上して相国寺の北側にある上御霊神社に陣を張りました。
畠山義就は、18日、上御霊神社を襲い、火を放ち、御霊合戦は義就の勝利に終わりました。

応仁の乱勃発

応仁元年(1467年)5月26日、京都で市街戦が始まります(上京の戦い)。

西軍:山名宗全、山名教之、山名勝豊、斯波義廉、畠山義就、畠山義統、土岐成頼、六角高頼など

東軍:細川勝元、細川成之、細川常有、細川勝久、京極持清、赤松政則、武田信賢など

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