北条早雲による戦国時代の幕開け
北条早雲の出自
北条早雲の出自は、「伊勢素浪人説」が主流ですが、小説や映画、テレビドラマなどで「素浪人から成り上がり老齢で大名に」という描き方がされたため、素浪人説が定着したものです。
北条早雲は、伊勢新九郎を通称とし、自ら早雲庵宗瑞と名乗っていました。
北条氏を名乗るのは、北条早雲の子・氏綱の時代からです。
北条早雲(伊勢宗瑞)は、永享四年(1432年)あるいは康正二年〈1456年〉頃生まれ、永正十六年(1519年)8月に88歳または64歳で亡くなったといわれています。
最近の研究で、北条早雲は、康正二年(1456年)、伊勢盛定の子として備中荏原荘(現井原市)あるいは京都で生まれ、伊勢氏支流・備中伊勢家を出自して持ち、64歳で亡くなったという説が有力です。
つまり、応仁の乱が始まった時には12歳で、堀越御所討入時に38歳ということになります。
応仁の乱が終わり、室町幕府の権威が失墜し、守護大名が衰退するなか、家臣が領主に代わって君主となる下剋上が頻発します。
戦国大名が誕生するとともに、一般農民にも領主に反抗する一揆による自立する気風が強まっていきました。
都市部では有力商人による自治組織が設立されるなど、すべての階級において、民衆の自治独立の気風が醸成されていきました。
堀越公方
堀越公方とは、室町幕府の東国支配機関のことで、堀越御所ともいいます。
読み方は、「ほりこしくぼう」ですが、地名ですと「ほりごえ」なので、「ほりごえくぼう」という言い方もされます。
長禄二年(1458年)、将軍・足利義政は、対立する古河公方・足利成氏への対抗策として、弟の足利政知を鎌倉公方として関東へ派遣しますが、政知は、鎌倉へ入ることができず、伊豆国・堀越(静岡県伊豆の国市)に本拠を置きます。
幕府の力を後ろ盾にして幕府に刃向かう足利成氏に対抗しますが、成氏とこれを支持する北関東の領主らを制圧することはできませんでした。
政知は古河の鎌倉公方・成氏に対する堀越の鎌倉公方として堀越公方と呼ばれたのが始まりです。
伊豆・今川氏のお家騒動
堀越公方の隣国、駿河国では、今川氏が家督争いによる内紛に直面していました。
駿河国守護・今川義忠が文明八年(1476年)に討ち死にすると、4歳の龍王丸(氏親)が残されますが、義忠の従弟の小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態となります。
これに堀越公方・足利政知と扇谷上杉家が介入し、執事の上杉政憲と家宰の太田道灌が兵を率いて駿河国に出兵しました。
今川家に嫁いでいた北川殿の弟でもある北条早雲は、駿河へ入って調停を行い、龍王丸(氏親)が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させました。
北川殿は氏親の子供ですので、北条早雲は氏親の叔父にあたります。
早雲の父・盛定は将軍義政の申次役を務める身であり、幕府の政所執事・伊勢貞親とは義兄弟の関係にありました。
早雲も、将軍・足利義尚の申次役として仕える身にありました。
北条早雲の伊豆討入り
堀越公方・足利政知は、長享元年(1487年)5月、次男の清晃(後の足利義澄)を上洛させた後、長男の茶々丸を廃嫡して三男で清晃の同母弟潤童子を自らの跡継ぎにしました。
延徳三年(1491年)、足利政知は、病に倒れ、伊豆で病死しました。享年57でした。
政知の死後、後継者から除外された茶々丸は、潤童子とその母・円満院を殺害、堀越公方の座を奪還します。
明応二年(1493年)4月、管領・細川政元が明応の政変を起こして10代将軍・義材(義稙)を追放し、清晃を室町殿に擁立しました。
明応の政変で将軍となった清晃(義澄)は、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に襲撃を命じたとされています。
母・円満院と弟・潤童子を殺害した茶々丸討伐の大義名分を得た早雲は、堀越公方・茶々丸を敗死させ、伊豆征服に成功しました。
この事件を早雲の伊豆討入りといいます。
関東では、扇谷上杉家が家宰・太田道灌の補佐のもと勢力を拡大し、山内上杉氏と並ぶ勢力となっていました。
山内上杉家と扇谷上杉家は関東管領の座をめぐって数十年にわたり抗争を続けていました。
相模を平定
長享元年(1487年)から永正二年(1505年)にかけて、山内上杉家の関東管領・上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で長享の乱といわれる紛争がありました。
同盟関係にあった古河公方・成氏は分裂により衰亡し、山内上杉家の相模の領地は北条早雲に次第に切り取られて支配権を失い、定正の後継ぎの上杉朝良は、北条早雲と甥で主君である駿河守護・今川氏親の軍事支援を得て、立河原の戦いは勝利しますが、朝良は河越城を包囲されて扇谷上杉家の降伏の形で長享の乱は収束していきました。
北条早雲と今川氏親は、徐々に相模に勢力を拡大していきます。
永正元年(1504年)8月の立河原の戦いでは、扇谷家・上杉朝良に味方した早雲は、氏親と共に出陣して上杉顕定に勝利し、関東への勢力拡大に成功します。
この頃、古河公方・足利政氏、足利高基親子間が2派に分裂し、上杉顕定はこれを憂えて出家して、両者の仲介役に立ちました。
永正六年(1509年)、顕定は養子・憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放しますが、永正七年(1510年)、顕定は長森原の戦いで敵の援軍であった高梨政盛に敗北し、自刃しました。
顕定の死後、顕実が関東管領を継ぎますが、越後から帰還した憲房が顕実と衝突して内乱を起こし、山内家の衰退に繋がっていきました。
相模の名族、三浦氏は鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していましたが、嫡流は北条氏に宝治合戦で滅ぼされ、傍流が相模三浦氏として、相模で大きな勢力を維持していました。
北条早雲は、永正九年(1512年)、当主の三浦義同が守る岡崎城、住吉城を攻略し、義同は義意の守る三崎城に逃げ込みました。
永正十三年(1516年)、北条早雲は、新井城(神奈川県三浦市三崎町)に名族三浦氏を滅ぼし、相模全域を平定しました。
永正十六年(1519年)、早雲は韮山城で亡くなりました。
後継ぎの氏綱は、鎌倉北条氏を擬して北条氏(後北条氏)を名乗り、武蔵国へ領国を拡大していきました。
北条早雲の強さの秘密
北条早雲の名言に「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず」があります。
身分や地位にかかわらず、全ての人に対して、どんな嘘もついてはいけないと戒めるものです。
領国の民には、常に誠実に接し、噓のない政治をおこなうことにあると遺しています。
北条早雲が理想とした政治は、「祿壽應穏」(禄寿応穏)、「領民の財産と生命はまさに穏やかなるべし」
領民の財も命も穏やかであるべしという思想でした。
北条早雲の領国経営策として、他の戦国大名に先駆け、検地を行い、過酷な税の徴収に苦しむ領民に対し、年貢を引き下げました。
子の氏綱は、それまで家臣や代官を通じて間接的に支配していた農民を直接支配する方法に改め、家臣等による悪政を防ぎました。
早雲作と伝わる「早雲寺殿廿一箇条」によると、仏神への信仰、主君への応対方法、読書、乗馬など文武の鍛錬法、礼儀作法など日常的な生活上の心得などを示しているのが読み取れます。
「早雲寺殿廿一箇条」によると、
何事も慎み深くしなさい
小田原市 『早雲寺殿廿一箇条』
無駄遣いや、無遠慮な態度は見苦しい。
朝は洗面の前に、邸内の厠、厩や庭、門外まで見回り、掃除すべきところを適切な者に指示し、それから素早く顔を洗いなさい。水はいくらでもあるからといって、ただうがいをして捨てたりしないこと。家の中だからといって大きな声を出したりするのは、無遠慮で聞くに耐えない。ひそかに行いなさい。高い天にも身をかがめ、固い大地にもそっと忍び足で歩くとういう教えがある。
農民から有力商人まで、すべての階級において、民衆の自治独立の気風が醸成されていった時代を読み取る先進性が早雲の強さの秘密であると考えられます。