豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄・慶長の役

文禄の役『釜山鎮殉節図』。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。Wikipedia

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵、文禄・慶長の役について考えてみます。
文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵は、天正二十年(1592年)に始まり、文禄二年(1593年)に終わった文禄の役と、慶長二年(1597年)に始まり、慶長三年(1598年)に終わった慶長の役に分けられます。

朝鮮半島では、文禄の役を「壬辰倭乱」、慶長の役を「丁酉倭乱」と呼びます。
中国では、「朝鮮之役」とか「萬曆朝鮮之役」と呼びます。

15~16世紀後半の世界情勢

15世紀中期、ヨーロッパでは大航海時代といわれる海外進出が始まります。
ヨーロッパ、主にスペイン、ポルトガルによるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われる時代がやってきます。

それまでぱっとしなかったヨーロッパ経済が復活します。
その先鞭をつけたのがポルトガルでした。
12世紀、アフォンソ1世がレコンキスタ(イスラムからの再征服)を進行し、ポルトガルがスペインから独立します。
ポルトガルは、地政学的に隣国スペインとは仲が悪く、陸地での交易が難しかったため、海上貿易が発展していきます。
ジョアン1世の子・エンリケ王子は、大航海時代を進展させる功績をあげたことから「航海王子」と称されました。
遠洋航海の必要性の高まりとともに、3本のマストを持つ大型帆船のキャラベル船を開発、高い操舵性を有し15世紀、主にポルトガル人とスペイン人の探検家たちに愛用されました。

キャラベル船
大航海時代のポルトガルのキャラベル Wikipedia

ポルトガルに触発された隣国スペインも海洋進出に乗り出しました。
スペインのコンキスタドール(征服者)、エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサは、メキシコのアステカ帝国を制圧します。
コルテスはアステカにおいて、彼らの黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行いました。
中央アメリカ、南アメリカの財宝は彼らに略奪され、ヨーロッパ大陸に流入していきました。
ボリビアのポトシにあるセロリコ銀山からは、4万トンを超える銀が算出され、3百年間で、アメリカ大陸からは、15万トンもの銀が算出されたといいます。

しかし、「無敵艦隊」とよばれるほど世界の超大国となったスペインでしたが、莫大な軍事費によって財政が悪化、インフレーションも重なり、覇権をイギリスに奪われることになります。

スペインのコンキスタドールと同じように、イギリスも国内の資源不足を補うため、海外進出を企てます。
1580年9月、私掠船(海賊)の船長、フランシス・ドレークは、マゼランに次ぐ史上2番目の世界一周を行い、スペイン植民地や船を襲うことで金銀財宝を奪いました。
航海後、女王エリザベス1世を含む出資者達に4700%とも言われる配当金を支払いました。
イングランド王室の取り分は30万ポンドを越え、当時の国家歳入(20万ポンド程度)よりも多く、この臨時収入により王室は対外債務を全て返済し、余剰金でレヴァント会社に増資することができ、これは後の東インド会社設立の基礎となりました。
2007年の映画『エリザベス・ゴールデン・エイジ』には、エリザベス女王に謁見するウォルター・ローリー卿が、海賊としてスペインから略奪した金貨・タバコなどを贈呈するシーンが描かれています。

イギリスとスペインは、1585年~1604年の間、英西戦争とよばれる断続的な戦争状態となりました。

1600年、エリザベス1世による貿易独占の勅許を得てイギリス東インド会社が設立されます。
東インド会社は、航海ごとに資金を出資する合本会社の形をとっていました。
オランダは、当時ポルトガル、スペイン、イギリスなどと東インドの香料貿易の覇権を巡り、激しく争っていました。
それら各国に対抗するため、イギリスの東インド会社をモデルとして、オランダ東インド会社が設立されます。
オランダ東インド会社は、出資者の有限責任を明確にしたことから株式会社の始まりと考えられています。

明と李氏朝鮮

日本と朝鮮半島の歴史的関係は、下記の記事に書いたとおりですが、宗主国である明とその植民地である李氏朝鮮とはどのような状況であったのでしょうか。

日本国の領域と朝鮮半島:BC2000年以降

日本国の領域と朝鮮半島:3世紀以降

神功皇后と三韓征伐

先史以来、半島南部を中心に、日本人(倭人)も多く住んでいた朝鮮半島と日本の関係は、白村江の戦い以降、中国と日本による領土的支配に関する野心が薄まり、商業的支配へと変遷していきました。

その代表が、13世紀から16世紀にかけて、倭寇といわれる朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や東アジア諸地域において活動した日本の海賊、私貿易、密貿易を行う商人でした。

室町時代、李氏朝鮮は室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、中国からは明も同様の要求をしました。
将軍・足利義満が倭寇を鎮圧し、朝鮮へ使節を派遣し、日朝貿易が行われようになります。

戦国時代の倭寇は、明の海禁政策による懲罰を避けるためマラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人が多く、一部の日本人(対馬、壱岐、松浦、五島、薩摩など)やポルトガル人など諸民族を含んでいたと推測されています。(Wikipediaより)
倭寇は、明の取締り強化と、豊臣秀吉の海賊停止令で姿を消していきました。

1572年、10歳の万暦帝が明の国王に即位しますが、明はその後、衰退期へと入っていきました。
万暦帝は政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った暗君だったことも国の衰退に拍車をかけました。

朝鮮というのは、元々中国の属国であり、冊封体制に組み込まれている地域です。
李氏朝鮮は、李朝ともいわれますが、内部抗争、派閥対立が絶えず起こり、国家という体をなしていませんでした。
本当の独立国となるのは、第二次大戦後、朝鮮戦争後のことです。

日朝貿易で取引されたものは、日本からの輸出品は銅・硫黄・南海の産物、輸入品は綿布・書籍などでした。
これを見ると、日本にとって輸入する品は少なく、輸出超過の取引だったことがわかります。
それに比べ、日中貿易、勘合貿易は取引規模も大きく、商人にとっても、国にとても大きなメリットがありました。

文禄の役

天正二十年・文禄元年(1592年)3月、豊臣秀吉は9編成、16万の軍勢を朝鮮半島に出兵します。
4月12日、宗義智と小西行長が一番隊として釜山に上陸し、「仮道入明」を求める最後通牒を朝鮮側に示しますが無視されたため、その日のうちに釜山城を落とし、小西行長軍も翌日までに勝利しました。
朝鮮軍は緒戦で大敗し、釜山周辺の沿岸部分を失いました。

文禄の役の陣立ては以下のとおりです。

  • 第一陣:宗義智・小西行長
  • 第二陣:加藤清正・鍋島直茂
  • 第三陣:黒田長政・大友吉統(義統)
  • 第四陣:毛利勝信(森吉成)・島津義弘
  • 第五陣:福島正則・長宗我部元親
  • 第六陣:小早川隆景・安国寺恵瓊
  • 第七陣:宇喜多秀家・増田長盛
  • 第八陣:浅野幸長・中川秀政
  • 第九陣:豊臣秀勝・細川忠興

4月17日、日本軍の二番隊、三番隊、四番隊が釜山に上陸します。

このあと、加藤清正、黒田長政軍も侵入し、5月3日、朝鮮の都・漢城(現在の京城:ソウル)は陥落し、朝鮮国王・宣祖は平安道に向けて逃亡しました。
朝鮮の首都・漢城の陥落は開戦からわずか21日のことでした。
その後さらに奥地へと進出し、6月14日、小西行長によって平壌が制圧されます。

7月16日、明軍が到着し、明軍副総裁・祖承訓率いる5000名が平壌を攻めますが、小西行長軍が制圧しました。

文禄二年(1593年)1月6日、明と日本軍の戦闘が始まりました。
戦いは続くものの、明と日本の間で講和交渉が行われていました。

6月28日、明の勅使は名護屋で禅僧らを介して秀吉と会見し、豊臣秀吉は次のような講和条件は提示しました。

  • 明の皇女を迎えて日本の天皇の妃とする
  • 勘合貿易を復活し、官船、商船を往来させる
  • 日本と明、双方が和平を永続させる旨の誓詞をとりかわすこと
  • 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、北部四道と漢城を返還する
  • 捕えた朝鮮王子2人は朝鮮に帰す
  • 朝鮮から王子と大臣を人質として日本に渡航させる
  • 朝鮮の重臣たちが、後世まで日本に背かない旨の誓詞をとりかわす


しかし、お互い自国に有利になるよう虚偽の報告がなされたため、交渉は決裂しました。

講和条件を見てもわかるように、あくまでも対象は明であり、明との交易が中心で、朝鮮の領土や人民には、それほど興味がないことが読み取れます。

慶長の役

講和が決裂すると、秀吉は大名に再出兵の準備を命じます。
慶長二年(1597年)2月、秀吉は第二次出兵の陣立てを定めました。

慶長の役の陣立ては以下のとおりです。

  • 第一陣・第二陣:小西行長・加藤清正
  • 第三陣:黒田長政
  • 第四陣:鍋島直茂
  • 第五陣:島津義弘
  • 第六陣:長宗我部元親・藤堂高虎
  • 第七陣:蜂須賀家政
  • 第八陣:宇喜多秀家・毛利秀元

蔚山城の戦い、泗川の戦い、などで日本軍は勝利し、兵数で優位だった順天城の戦いでも、明・朝鮮水軍は敗北しています。

慶長三年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉が62歳の生涯を閉じます。
秀吉の死後、五大老・五奉行制を敷いた豊臣政権では、大名間の権力を巡る対立が起こり、もはや朝鮮出兵を続ける状況にはありませんでした。
10月15日、五大老により、帰国命令が発令されました。

唐入りは織田信長から引き継いだ?

確定史料はありませんが、豊臣秀吉は織田信長の「唐入り」つまり、明への進出という野望を引き継いだ、という説があります。

『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。
また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。
しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。
中村栄孝は、信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている。
ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる。
本郷和人は、外交をし、交易を盛んにすることは、まさに信長の望みであり、「日本を統一した暁に、信長が海外に派兵した可能性は大いにある」「物流や交易を重視する信長ならば、おそらくは海外に進出しただろう」として、信長であれば、秀吉のように領土の獲得に固執するのではなく、ポルトガルのゴア、スペインのマニラのように「点」の獲得を目指し、しかるべき都市を入手してそこを城塞化し、貿易拠点を築くようなことをしたのではないかと指摘している。
結果、信長がもう少し生きていれば、日本にとって良い結果を生むか、悪い方に転ぶかは分からないが、日本はもっと早く国際化したのではないだろうか、と指摘している。

織田信長 Wikipedia

信長から明確に引き継いだかどうかはわかりませんが、当時の日本にとって明への進出がまったく奇想天外な策ではなかった、と言えるのではないでしょうか。

唐入りについての自説

  • 明の国力衰退
  • 中国との貿易復活
  • スペイン、ポルトガルなど欧州の中国進出阻止

これらの複合的要因により、総合的に判断して豊臣秀吉は、朝鮮出兵、その後明への進出を考えた、と私は考えます。
決して秀吉は耄碌して奇想天外な奇策に打って出たわけではなく、綿密な戦略のもと行われたものでした。
ポルトガル、スペインに取られる前に、日本が進出することで海外勢力の進出を抑えたのではないでしょうか。
朝鮮半島を経由したのは明進行の長期視点の現れです。
朝鮮半島を落として領土を拡大しつつ、明に攻め込むという戦略をとったと思われます。
あるいは、朝鮮を味方につけ先導役をさせて明に攻め込むという、元寇でモンゴルが行ったことと反対のことを考えついたといえます。
しかし、朝鮮が反抗し、日本には味方しなかったとともに、あまり戦力として役に立たなかったため、先導役にするのを諦めて日本軍単独で進行することを考えたといえます。

ちなみに、現代の韓国で英雄となっている李舜臣と亀甲船による史話は、ほぼ捏造された史実ではない虚像だと言われています。
日本敗戦後のいわゆる自虐史観が全盛のころのような、日本人悪人説が歴史史観にも影響し、朝鮮侵略として秀吉の行為が語られるのは残念です。

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