神武東征の経路(難波碕~三輪)

神武東征(日向~播磨)はこちら

■『古事記』の神武東征まとめ(日向~播磨)

兄の五瀬命と、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙に到着した。
土着の宇沙都比古と宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らをもてなした。
彼らは宇佐から移動して、筑紫の岡田宮で1年留まり、阿岐国の多祁理宮(広島県府中町)で7年、吉備国の高島宮で8年留まった。

■『日本書紀』の神武東征まとめ(日向~播磨)

東征1年10月5日、磐余彦尊はみずから諸皇子と船軍をひきいて東征に出発した。
速吸の門(豊予海峡)に到着した時、土着神の珍彦を道案内とし、椎根津彦という名を与えた。
筑紫国の宇佐につき、宇佐国造の祖、宇佐津彦・宇佐津媛が造った宮に招かれもてなされた。
この時、磐余彦尊は勅して、宇佐津媛を侍臣の天種子命(中臣氏の祖)と娶せた。
東征1年11月9日、筑紫国の岡水門に到着した。
東征1年12月27日、安芸国につき埃宮に居る。
東征2年3月6日、吉備国に移動し、高島宮に3年間留まった。

神武東征(難波碕~) ※戦いは別記事で

神武東征(東遷)の播磨以降の経路を見ていきましょう。
長髄彦との戦いは別途述べます。

神武東征(難波碕~):『古事記』

さらに東に向かおうと速吸門を経て、浪速之渡を通り、青雲の白肩津で停泊した。
この時、登美能那賀須泥毘古(長髄彦)と戦った。
磐余彦尊等が御船を降りる時、楯をとって降りたことから、この地を日下の蓼津と呼んでいる。
五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。
五瀬命を竈山(和歌山市和田)に葬った。
高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の下流を経て、阿陀を通り、国栖を経て大和の宇陀に至った。
宇陀では兄宇迦斯と弟宇迦斯を制圧し、忍坂(奈良県桜井市)で土雲の八十健を殺し、目的地である磐余の弟師木を帰順させて兄師木と戦った。
最後に、登美毘古(長髄彦)と戦い、そこに邇藝速日命が現れて、天津神の御子としての天津瑞を献上して仕えた。

神武東征(難波碕~):『日本書紀』

(東征5年)3月10日、川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。
(東征5年)4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲へ入ろうとした。
その地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦いになった。
盾をたてて雄叫びしたので草香津を盾津(蓼津)と改称した。磐余彦尊はそこから船を出した。
(東征5年)5月8日、茅渟の山城水門に到着したが、五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山で亡くなった。
(東征5年)6月23日、名草邑に到着し、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。
熊野の荒坂津で丹敷戸畔を誅した。
磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県に入った。
(東征5年)8月2日、菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。
弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。
(東征5年)12月4日、長髄彦と決戦となった。
金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。
長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。

神武東征(難波碕~):神社伝承他

播磨を出た磐余彦尊一行は、明石海峡を経由して難波碕に入ります。
大阪平野は当時、河内潟という遠浅の湖だったとしても、生駒山を越える道はなかったようです。
奈良の三輪に入るには、柏原市から竜田(竜田越え)に入るのが一般的でした。
旧大和川を船で上り、放出あたりから陸路で入り、日下(孔舎衛坂)で待ち伏せしていた長髄彦一派と戦いになったのでしょう。
梶無神社に伝承が残っています。

神武天皇の東征の際、御船を白肩津から入江深くにさかのぼって来たが、生駒颪によって波高く、梶(舵)が折れ、海上を漂流するという危機に直面した。神武天皇が祖神の御加護を求めて祈祷を行ったところ、さしもの強風も鎮まり波も穏やかになって、附近の丘に御船を付けて上陸することができた。

梶無神社の伝承

伝承では、白肩津から入江深くにさかのぼって来た。となっていますが、河内潟や湖であった時代ですので放出あたりで陸路に入ったのではなく、日下あたりまで船で入った可能性があります。
その意味では、3世紀頃と想定した神武天皇即位年が、もう少しさかのぼる可能性があります。
大阪平野が河内潟であった時代ですと、紀元前後に相当します。
場合によっては、紀元前後~1世紀頃までさかのぼることもあり得ます。

戦いから逃れるため、茅渟の山城水門、現在の仏並に退却し、彦五瀬命の亡骸を和歌山の竈山に埋葬したことは間違いなさそうです。

和歌山からは紀伊半島をぐるりと周り、熊野越えを選択します。
熊野越えの道案内をしたのが八咫烏です。
もちろん鳥が先導するわけありません。
八咫烏一派、つまり、建角身命、別名が加茂建角身命、三島溝橛耳です。
『日本書紀』編者によって、氏族を隠された可能性があります。
加茂建角身命は、賀茂氏や葛城国造の始祖であり、下鴨神社(賀茂御祖神社)のご祭神です。
船で吉野川をさかのぼって宇陀市榛原あたりまで同行した模様です。
■八咫烏神社
八咫烏神社:奈良県宇陀市榛原高塚にある神社。『延喜式神名帳』記載の式内小社。旧社格は県社。
ご祭神は、建角身命(八咫烏)です。
由緒書をみると、建角身命は『新撰姓氏録』によれば、神武天皇をお導きする際に「八咫烏」に化身せられたとも伝えられています。

その後は、長髄彦と再度戦い、遂に三輪に入ります。

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