神武東征の戦い 本当にあったの?

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長髄彦との戦い

神武天皇(磐余彦尊)が日向を出発し、様々な勢力と戦います。いわゆる神武東征の戦いです。
一番有名なのが長髄彦との戦いです。
『古事記』では登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)といい、戦いの記述はなく、邇芸速日尊が磐余彦尊に服従したとしています。
一方の『日本書紀』は、日下で待ち伏せしていた長髄彦一派と衝突し、磐余彦尊一団は退却します。
その後、また戦いになり、互いに神璽を示し合いますが、それでも長髄彦が戦い続けたため、饒速日尊によって殺されます。
『先代旧事本紀』は、ほぼ『日本書紀』と同じですが、饒速日尊は亡くなっていて、殺したのは宇摩志麻治命になっています。
長髄彦は、登美(生駒市北部・奈良市富雄)地域を勢力とする一族です。
ニギハヤヒ一派がやってくる前から奈良北部を治めている地場勢力でした。
饒速日尊の義理の父である長髄彦にとって、たとえニギハヤヒ勢力と同族とはいえ、日向という遠方の地からやってくる新興勢力に、地元を荒らされたくなかったのではないでしょうか。
もしくは、磐余彦尊一行が何かの手違いがあって、敵と間違えて長髄彦を襲撃してしまったとか。
長髄彦は、神武一行ではなく同族のニギハヤヒ一派に殺害されています。
仲間割れみたいにも見えます。
まあ、時代劇ドラマのような大げさな戦闘ではなかったのでしょう。。。

『日本書紀』の長髄彦という名前は、どうも素性を隠されたような感じもしますが。
ともかく、とばっちりを受けたアンラッキーな彦五瀬命は、この戦いが原因で亡くなったことは確かなようです。
竈山神社に伝承が残っています。

竈山神社:神武東征で亡くなった彦五瀬命を祀る

■竈山神社(釜山神社)
和歌山県和歌山市和田にある官幣大社で、別表神社です。
本殿の背景に、彦五瀬命の墓と伝えられる宮内庁治定墓の竈山墓があります。
伝承によると、ご祭神の彦五瀬命は、第一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衙坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竈山の地に葬られ給う。
となっていて、神武東征で彦五瀬命が傷つき、亡くなったことは、かなり信憑性が高いものとなります。

長髄彦との戦い以外は創作

『古事記』に、宇陀の兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟、忍坂の土雲の八十建。
『日本書紀』に、荒坂津の丹敷戸畔、菟田県の兄猾と弟猾、菟田の八十梟帥や兄磯城、新城戸畔、居勢祝、猪祝、高尾張邑の土蜘蛛などが出てきますが、おそらく創作でしょう。
勇ましい勇敢な神武東征説話を盛り上げるための脚色だと思います。
『日本書紀』編者には、吉野熊野は山賊の出るような山深い未開の土地というイメージがあって、盗賊がよくでるといった伝承を聞いていたのではないでしょうか。
そんな山深い道を山賊を成敗して進軍した、という物語を作り上げたとみます。
とはいっても、脚色話があるから『日本書紀』はすべて作り話、神武天皇は実在しない、ということではないでしょう。
『日本書紀』編者が何十年もかけて小説を書くわけがありません。

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