神武東征の経路(日向~播磨)
神武天皇について概要は以下にあります。
今回は、神武東征の経路を辿ってみます。
磐余彦尊 日向を出発
日向に住んでいた磐余彦尊(神武天皇)は、234年日向を出ることになります。
いわゆる神武東征です。
これは東征ではなく実質は東遷だったことは、前回「初代 神武天皇」で書きました。
神武東征がどのような経路を辿ったかをみてみましょう。
『古事記』の神武東征
兄の五瀬命と、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙に到着した。
土着の宇沙都比古と宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らをもてなした。
彼らは宇佐から移動して、筑紫の岡田宮で1年留まり、阿岐国の多祁理宮(広島県府中町)で7年、吉備国の高島宮で8年留まった。
さらに東に向かおうと速吸門を経て、浪速之渡を通り、青雲の白肩津で停泊した。
この時、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)と戦った。
磐余彦尊等が御船を降りる時、楯をとって降りたことから、この地を日下の蓼津と呼んでいる。
『日本書紀』の神武東征
東征1年10月5日、磐余彦尊はみずから諸皇子と船軍をひきいて東征に出発した。
速吸の門(豊予海峡)に到着した時、土着神の珍彦を道案内とし、椎根津彦という名を与えた。
筑紫国の宇佐につき、宇佐国造の祖、宇佐津彦・宇佐津媛が造った宮に招かれもてなされた。
この時、磐余彦尊は勅して、宇佐津媛を侍臣の天種子命(中臣氏の祖)と娶せた。
東征1年11月9日、筑紫国の岡水門に到着した。
東征1年12月27日、安芸国につき埃宮に居る。
東征2年3月6日、吉備国に移動し、高島宮に3年間留まった。
東征5年2月11日、難波碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
東征5年3月10日、川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。
神社伝承他の神武東征
磐余彦尊が住んだ柏原から出発し、五瀬尊も同行しました。
記紀には書かれていませんが、日向では数カ所に立ち寄っています。
湯之宮(湯之宮神社)→高鍋町(鵜戸神宮)→河南町(甘漬神社)→都農町(都農神社)→美々津町(立磐神社)
宮崎から陸路北へ進まれ湯の宮でお泊り御湯を召され、次に甘漬や都農では武運長久のお祀りをされ、更に北に向かい美々津の港(立磐神社)から船出されたと伝えられています。
宮崎神宮サイトから引用
皇軍の向かうところ風雲自ら静謐となり、海路速吸門(豊予海峡)も無事に、菟狭、岡水門、埃宮にお寄りになり、翌年三月には更に高嶋宮に到り、三年を行館に座して軍備を整えられました。
それから浪速の河内国草香邑に上陸されたのですが、生駒山の要害に拠る賊酋長髄彦は天皇の軍を遮りなかなか降伏しなかったことから、遂に道を改め、海路紀伊国へ熊野路から攻め入られたのです。
此の間、皇兄五瀬命は戦傷の結果遂に薨去され、また熊野灘では海上暴風の為めに皇兄三毛入野命と稲飯命のご遭難を始め幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難をなめさせられました。
豊後国に入って蒲江に立ち寄ります。伊勢本社に伝承が残っています。
豊後水道の難所であった速吸の門に入るにあたり祈願したのでしょう。
そして速吸の門では、『日本書紀』にあるように、土着神の珍彦を道案内とし、椎根津彦という名を与えたようです。
椎根津彦神社の伝承に残っています。
次は宇佐→岡田宮→宗像→岡湊に寄港、滞在します。
そして九州を離れ安芸に向かいます。
安芸に入る前に周防国(周南市)に入ります。神上神社に伝承が残っています。
そして安芸に入り、埃宮に滞在します。厳島神社にも伝承が残っています。
埃宮は、多家(気)神社など複数の候補があるようです。
埃宮には『古事記』の7年は大げさですが、数ヶ月は滞在したものと思われます。
その後、吉備国に入ります。
岡山県岡山市の安仁神社には、五瀬尊を祀る伝承が残っています。
「神武天皇御東征の時、天皇は吉備国高島の宮に、彦五瀬命は宮城山に駐させ給うこと数年、天皇とともに浪速の津に向かわせられたが、彦五瀬命は孔舎衙坂の戦いに、賊の流矢に当たり、遂に薨去せられた。神武天皇御登極の後、皇兄の行在された由緒深いこの地に尊霊を鎮祭されたのが当社の起源である。兄神社または久方宮と称された」と記録されています。
そして播磨国を経由して、難波の津に入ります。