初代 神武天皇

Wikipediaより引用

初代天皇はどなたかといえば、神武天皇です。
学校で習ったはず?!
いいえ、習いません。
初代天皇の御名前「神武天皇」を日本の学校では教えません。
戦争が終わり、75年以上経つのに頑なに教えようとしません。これは異常といえるでしょう。
世界の国々で自国の成り立ちを教えないことがあるとは思えません。
政府は、はっきり存在を明言しなくてもいいので、「初代天皇」「神武天皇」について教えて下さい。

初代 神武天皇とは

神武天皇は初代天皇です。
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)とも言われます。
諡号は、彦火火出見(ヒコホホデミ)。
鵜鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と玉依姫の第四子です。

こちらに神武天皇即位の年代についての記事があります。

『日本書紀』によると、神武天皇は素盞鳴尊と天照大神の誓約で生まれた天忍穂耳尊から数えて5世孫にあたります。
しかし、その間には荒唐無稽な神話伝承が挟まっているために、本来の年代とは異った記述になってしまったと考えられます。
海幸彦・山幸彦の話や、素盞鳴尊の三種の神器の話等です。
著名歴史家の著作や神社由緒などから考えると、以下のような結論が得られます。

  • 天津彦根命=瓊瓊杵命
  • 活津彦根命=彦火火出見尊
  • 熊野櫲樟日命=鵜葺草葺不合命
  • 日向の狭野で誕生

したがって、5世孫ではなく、2世孫であると結論づけました。
ここから年代を推定すると、神武天皇は辛酉241年に即位した、との仮説にたどり着きました。
即位した場所は、日向ではありません。大和です。
『日本書紀』では辛酉正月1月1日に橿原宮で即位します。
皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)です。
媛蹈鞴五十鈴媛命は、事代主尊と三島溝橛耳(ミシマノミゾクイミミ)の子である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)の娘です。
三島溝橛耳は別名が加茂建角身命(カモタケツヌミ)、いわゆる八咫烏です。
「八咫烏」はもちろん鳥ではありません。八咫烏一派といった意味でしょうか。
『日本書紀』編者によって、氏族を隠された可能性があります。
大和の葛木山と縁があることから葛城氏系、蘇我系と繋がっているものと思われます。
加茂建角身命は、賀茂氏や葛城国造の始祖であり、下鴨神社(賀茂御祖神社)のご祭神です。

神武天皇ご生誕地

神武天皇のご生誕地は、宮崎県の狭野神社付近だと伝わります。
幼少期は狭野尊と呼ばれたということです。
この神社は創建が第五代孝昭天皇の頃ですので、かなり信憑性は高いです。
やはり神武天皇は実在していたのではないでしょうか。状況証拠の一つです。

神武東征の動機

即位の少し前にさかのぼってみましょう。
磐余彦尊が日向を出発する時代に戻ります。
234年頃、磐余彦尊は日向を出発し、大和に向かいます。
なぜ日向を出立したのでしょうか?
日向を出なければ行けない理由があったわけです。

『古事記』は、「どこに住めば、平和に天下を治めることができるのか」と、弟の五瀬命に相談したことになっています。
『日本書紀』は、「東の方に良い土地があり、饒速日がいるのでそこに行って都をつくるに限る」と、塩土翁に相談したことになっています。
『古事記』には出てきませんが、『日本書紀』では饒速日を頼って行くといい、となっています。
私の年代推定ですと、磐余彦尊が生まれてすぐに(220年頃)饒速日尊は亡くなっているので、饒速日の子孫が大和を牛耳っていたと思われます。
饒速日尊の子は、天香山尊(高倉下)と宇摩志麻治尊です。
ニギハヤヒ一族のヤマト国とイワレヒコの日向国は、スサノオの血をひく同系統の国(グループ)だったことがわかります。
記紀では、磐余彦尊が自ら望んで日向を出立したことになっていますが、ニギハヤヒの名前が出てくるということは、ヤマト国側の要請もあったのではないでしょうか。
日向で吾平津媛命と結婚し娘を儲けていた磐余彦尊が、なぜわざわざ家族を日向に残し、家族を捨ててまで別天地に行ったのか。
(吾平津媛は日向を出てヤマトに住んだという説もあり)

日向出立は、卑弥呼女王からの命令ではなかったのか。
ヤマト国からの要請で日向側もその要請を受け入れざるを得ない理由があって、決定されたものではないのか。
日向国にとっては跡取り息子である磐余彦尊を、婿に出すということを承認せざるを得なかったわけです。
イワレヒコとヤマト国の姫君との政略結婚です。
なんらかの政治的理由があったことは想定できます。

神武東征の内容は神話レベル?

『日本書紀』『古事記』の制作は8世紀のことであり、大和朝廷が強大になった時代です。
地方の南九州の田舎からムコ殿をもらったというストーリーでは、大和朝廷の権威付けになりません。
もちろんそれだけの理由ではないでしょうが。
記紀は、初代天皇の確定にあたり、勇ましい征討物語をもって天皇の権威を印象づけたかったのであって、実態は決して神武東征ではなく、どちらかというと神武東遷であったのです。
ヤマトに近づいてからも、地元の土蜘蛛のような蛮族と戦わせたり、勇ましいストーリーを演出しています。
即位してからこれら地元の蛮族を制圧していったのが実情でしょう。

神武天皇は実在したのは確かでしょうが、記紀が記録する神武東征の内容については、誇張が多く信ぴょう性が低いと思います。
とはいえ、全てを嘘である、ということにはなりません。

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