邪馬台国宮崎説と卑弥呼(5)

卑弥呼
卑弥呼 Wikipedia

邪馬台国論争の卑弥呼

魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼とはいったい誰なんでしょうか?

以前書いた卑弥呼についてはこちら

邪馬台国論争で出てくる卑弥呼についての主な主張は下記のとおりです。

  1. 卑弥呼=天照大神説
  2. 卑弥呼=神功皇后説
  3. 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説
  4. 卑弥呼=熊襲の女王説
  5. 卑弥呼=倭姫説

可能性があるのは1番と4番でしょうか。
2番は時代が合わず、3番と5番は皇女であって女王ではないです。
4番も国家ではないものに、さすがに中国も「親魏倭王」は与えないでしょう。
1番の卑弥呼=天照大神が一番可能性があります。

卑弥呼=天照大神説 を考察する

卑弥呼=天照大神

天照大神は天照大御神、大日霊女貴尊、大日孁貴命、天照皇大神などの異名があります。
読み方は、アマテラスオオミカミ、アマテラスオオカミ、オオヒミコムチノミコト、オオヒルメムチノミコトなど。
日巫女、日御子からヒミコ=卑弥呼となったのでしょうか。
天照大神は、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の子供です。
筑紫の日向の小戸の橘の檍原(阿波岐原)は、降臨した伊邪那岐尊が禊をした場所です。
伊邪那岐尊の子である天照大神を祀る神社が多く残っているのが鹿児島県です。

神社伝承から卑弥呼=天照大神を考察する

卑弥呼=天照大神説を考察するに際し、ご当地である九州南部の神社伝承をみてみることにします。

枚聞神社

枚聞神社と天照大神

枚聞神社は天照大神を祀る鹿児島県指宿市にある薩摩国一宮です。
薩摩一宮ということは、この辺りが栄えていたようで、琉球人も盛んに立ち寄った交易拠点だったことが伺えます。
天照大神の子供として五男三女も祀られています。

揖宿神社

揖宿神社と天照大神

枚聞神社と同じ鹿児島県指宿市にある揖宿神社も、天照大神と子の五男三女を祀り、開門新宮九社大明神として崇められています。
枚聞神社、揖宿神社ともに「大日孁貴命」とあるように、同じ人物を祀っているのは確かです。

天岩戸神社

天岩屋神社

天岩戸神社は、宮崎県高千穂町にある神社で、かつては伊邪那岐尊、伊邪那美尊を祀っていたと伝わる民間信仰が由来の神社です。
天岩戸神社も主祭神は「大日孁命」(オオヒルメ)です。
大日孁命とは別に天照皇大神を祀るのは、本来は東本宮と西本宮で別々だったものを一つに合祀したからです。

このように、ご当地とみられる宮崎県から鹿児島県にかけての九州南部で、天照大神は多く祀られていることがわかります。
そして五男三女にあたる御子です。

  • 天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)
  • 天之穂日命(アメノホヒ)
  • 天津彦根命(アマツヒコネ)
  • 活津彦根命(イクツヒコネ)
  • 熊野樟日命(クマヌノクスヒ)
  • 多紀理毘賣命(タギリビメ)
  • 狭依毘賣命(サヨリビメ)
  • 多岐都比賣命(タギツヒメ)

これらの御子は、天照大神の子であり、素盞鳴尊の子でもあります。
ですが、これら宮崎県、鹿児島県の神社にスサノオの記録はありません。
これは、スサノオが宮崎県、鹿児島県に住んだり功績を残した形跡がないということになります。
スサノオが出雲神であり、出雲から出ていないか、あるいは北部九州までが勢力範囲だったことの表れでしょう。
『日本書紀』では、天照大神と素盞鳴尊が「誓約」で子を成したとなっていますが、姉弟の関係にしてしまったため、「誓約」ということにするしかなかったということでしょう。
『日本書紀』もこのあたりは「大人の事情」ということで表現をぼかしたのでしょうね。

上記の「神武天皇系図」を見ると、神武天皇と天照大神の間に4柱の神がおられます。
天忍穂耳尊、瓊瓊杵命、彦火々出見尊、鵜葺草葺不合命の4柱です。
世代的に5✕20年=100年 神武天皇即位241年から100年前ですと140年頃には天照大神が子供を生むことになりますから、さらに20年前ですと120年頃に生まれていないといけないので、卑弥呼との年代が合いません。

『日本書紀』の系図は本当に正しいのか、考察してみましょう。

天照大神 五男の年代考察

天之忍穂耳命

天之忍穂耳命は別名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)といいます。
『日本書紀』では天照大神と素盞鳴尊の長男として誓約で生まれます。
神社伝承からもほぼ長男として間違いないでしょう。
「耳」という字を使うのは、耳川が本拠だったことからつけられたと推測されます。
耳川は宮崎県東臼杵郡および日向市を流れる二級河川で、耳川の戦いの古戦場としても有名です。

天穂日命

天穂日命(アメノホヒ)は天照大神と素盞鳴尊の次男です。
能義神社の由緒書に「天穂日命は國土奉還の使者として高天原より大国主尊のもとにおいでになり、大きなご功績を挙げられた」と書かれています。
天照大神と素盞鳴尊の御子として日向で生まれ、大国主命を助けるために出雲に渡って功績をあげた事がわかります。
能義神社は島根県安来市能義町にある県社です。
能義神社境内およびその近くに遺跡および古墳が残っていることから、天穂日命はこの辺りに生涯住んだことがわかります。

能義神社と天穂日命

天津彦根命

天津彦根命は、『日本書紀』では天照大神と素盞鳴尊の三男として誓約で生まれます。
瓊瓊杵尊は、別名を天津日高日子火瓊瓊杵尊(アマツヒタカヒコホノニニギ)といいます。
別名にある天津日高日子+火瓊瓊杵尊の前半部分天津日高日子が天津彦根命のことを指していると考えます。
したがって、天津彦根命は瓊瓊杵尊と同一人物であり、『日本書紀』にあるような天穂日命の御子ではなく、兄弟であると推定できます。

可愛山陵と新田神社に瓊瓊杵命が祀られています。
新田神社が先か可愛山陵が先かで議論があります。
ご祭神が天津日高彦とあるように天津彦根命を思わせる御名前で祀られています。
瓊瓊杵尊の母親である天忍穂耳尊の后を祀らず、天照大神を祀っていることからも、兄弟であると推定しました。
この新田神社と可愛山陵は、現在も宮内庁で管理されていて、昭和天皇をはじめ9人の皇族がご参拝されています。

活津彦根命

ここまでくると、なんとなく予想できますね。
活津彦根命は彦火々出見尊と同一人物です。
『日本書紀』では天照大神と素盞鳴尊の四男として誓約で生まれます。
別名は、天津日高日子火々出見尊で、后は豊玉姫命です。
海幸彦・山幸彦は神話の伝承なので、話半分に聞いていたほうがいいでしょうが、豊玉姫命を祀る神社が南九州市知覧や指宿市にあります。
南九州の知覧から霧島市あたりが彦火々出見尊の勢力範囲だったと思われます。

鹿児島神宮と高屋山陵

熊野楠日尊

熊野楠日尊、熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、別名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合尊(ナギサタケウガヤフキアエズ)といいます。
『日本書紀』では天照大神と素盞鳴尊の末子である五男として誓約で生まれます。
末子の神倭伊波礼毘古尊が神武天皇となります。

吾平山上陵と鵜戸神社

吾平山上陵は宮内庁によって鵜葺草葺不合尊の陵墓に治定されています。
鵜戸神社は、もともと吾平山上陵の近くにあったものを現在の場所に移したものです。
宮崎県にある鵜戸神宮のほうが有名で官幣大社ですが、残念ながら本物ではないようです。
名前が「鵜戸」と同じであることから、後の時代になって『日本書紀』の神話をもとに鵜葺草葺不合命を祀ったものと思われます。
現実の鵜葺草葺不合命の神社は鵜戸神社であって、鵜戸神宮は神話の空想の世界です。
『日本書紀』に「西洲の宮、吾平山上陵に葬る」と書かれています。
この吾平山上陵の東の丘には、后の玉依姫のお墓も鎮座しているとのことです。
鵜葺草葺不合命と玉依姫の夫婦で埋葬されていました。

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