卑弥呼は天照大神なのか?

魏志倭人伝と卑弥呼の記事はこちら

邪馬台国と卑弥呼についての自説(1)

邪馬台国と卑弥呼についての自説(2)

邪馬台国宮崎説と卑弥呼について(3)

邪馬台国宮崎説 と神武天皇の年代推定(4)

邪馬台国宮崎説と卑弥呼(5)

卑弥呼が誰なのかは、上の記事で書きました。
その中でも可能性が高く、著名人でも割と主張する人の多いのが、卑弥呼=天照大神です。
天照大神は、記紀において、天津神とされてしまい本当の素性を隠されています。

『日本書紀』『古事記』のアマテラス

『古事記』でのアマテラスは、天照大御神という名前で、『日本書紀』は天照大神、また、大日孁貴神(オオヒルメノムチノカミ)という別名で登場します。
神社では、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)、皇大御神(スメオオミカミ)という名前でも祀られています。
大日孁貴神の「孁」は「巫」と同じ意味なので、日孁は「ヒミコ」と読むことができます。
ヒルメではなくヒミコ、よって卑弥呼となったのでしょう。

そもそも『日本書紀』編纂当時、天照大神を皇祖神としたのは、祖神にふさわしい「大女王」だったからだとみています。
そして、中国側でもその評判が広がっていて、女王卑弥呼を倭人伝で紹介したのだと推測します。
巫女の力で倭国大乱を治めて、平和な時代をもたらした、という名声です。
そして、『日本書紀』編纂時に、アマテラスを持統天皇の正統性を、主張するための論拠として編集するように指示が出たものではないかと想像します。
皇祖神である天照大神は、本来男性(スサノオ・ニギハヤヒ)であったのを、女性(アマテラス)に入れ替え、それに合わせて、都合の悪い伝承は消去または名前を変更します。
記紀以外にこれといった史料がないのも、焚書されたのかもしれません。
このあたりは、上山春平さん、関裕二さん、小椋一葉さん等が著作で説明されています。
スサノオがアマテラスの弟にされて、誓約で子供を儲けたり、アマテラスに駄目だしされたり、無理のある神話にすり替えています。

天照大神の年代推定

天照大神(アマテラスオオミカミ)の時代を推定してみましょう。

『日本書紀』によると、スサノオはアマテラスと誓約で5柱の子供を儲けます。

  • 天津彦根命
  • 天穂日命
  • 天忍穂耳尊
  • 活津彦根命
  • 熊野櫲樟日命

天忍穂耳尊が子供を儲けます。それが、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)です。
そして、彦火々出見尊、鸕鷀草葺不合尊と続き、神武天皇が生まれます。
『日本書紀』で神武天皇は、天照大神から6代目にあたります。

しかし、邪馬台国と卑弥呼の記事で紹介したように、海幸彦・山幸彦の神話を挿入したり、名前を替えられたりしていることから、下記のように、6代ではなく、3代目であると考えています。

まとめると下記のようになります。

このように天照大神と神武天皇の世代差は「日本書紀」で語られるほどなかったことになります。
6代ですと、神武天皇から見れば、天照大神とはご先祖様程の遠い関係ですので、同じ時代を生きたという感覚はないでしょう。
しかし、3代前であれば、孫とお祖母さんですから、同じ時代を生きたこともあったでしょう。
スサノオと神武天皇が3代であることからも、神武天皇と天照大神の3代というのは可能性の高い時代感覚だと思います。

したがって、天照大神は天津神に祀り上げられて、神話の世界つまり神に押し込まれていますが、実際は、スサノオ・ニギハヤヒ・神武天皇の時代を生き、現実的な政治を統率した女王であることがわかります。

この時代の年代特定は難しいのですが、神武天皇即位年を230年~263年の間と仮定します。
邪馬台国宮崎説 と神武天皇の年代推定(4)
それによると、神武天皇は、215年頃に誕生したことになります。
天照大神(アマテラス)は神武天皇の祖母にあたるので、150~160年前後には生まれていたはずです。

卑弥呼と天照大神の年代は合致する

魏志倭人伝に卑弥呼は長寿だったということが書かれています。
そうなると、卑弥呼は魏志倭人伝によると247年頃に亡くなったことが記載されていますので、150年~160年頃に生まれていたと推定できます。
これは、卑弥呼が長寿であったと読み取れる記述があるからです。
これはあくまでも、神武天皇を230年頃に即位したという前提ですので、証拠はありません。
年代と場所が合致することからの主張が、卑弥呼=天照大神であり、邪馬台国=日向ということになります。

天照大神の出身地

天照大神の出身はどこでしょうか。
神社伝承で当たりをつけることができます。
伊邪那岐尊・伊邪那美尊の禊祓の場所は、宮崎市阿波岐原町の江田神社、住吉神社に残っています。
記紀の「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(阿波岐原)」ですね。
伊邪那岐尊・伊邪那美尊と天照大神の家族は、日向を拠点に、大隅、薩摩まで勢力を伸ばしたものとみられます。
下記の図をみると、天照大神の御子は鹿児島県を勢力としたことがわかります。

薩摩の陵墓

瓊瓊杵命の陵墓と新田神社が鹿児島県川内市にあります。
彦火火出見尊の陵墓・高屋山上陵と鹿児島神宮は、鹿児島県霧島市にあります。
鵜葺草葺不合尊の陵墓・吾平山上陵と鵜戸神社は、鹿児島県鹿屋市にあります。

一方、下記の図と神社伝承から、天照大神(アマテラス)・素盞嗚命(スサノオ)王朝は、日向中心だったとみられます。

日向の古墳群

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