大国主命と出雲国譲り

前回大国主(オオクニヌシ)の続きです。

大国主命
著者作成

上の図は私が考える、3世紀頃の九州・大和の勢力図です。
スサノオ(須佐之男尊)は、オオクニヌシ(大己貴命)と須世理姫の婚姻を認めると、出雲から九州に覇権を伸ばします。
前の記事で触れたように、多紀理比賣命(田心姫命)と結婚し南部九州・日向に進出します。
当時の日本列島は、寒冷期で出雲は寒さが厳しく農作物もあまり穫れなかったようです。
温暖な南部九州で生活するのは自然の流れだったでしょう。

オオクニヌシの死後、南部九州では、多紀理比賣命との間に生まれた事代主尊がいました。

大国主命と建御名方神との力比べ

建御名方神は、『古事記』のみに登場する神です。
著名人によると、『古事記』以外の『日本書紀』・『先代旧事本紀』・出雲国風土記などに登場しないことから、力比べの話は、後世の人が挿入した説話ということのようです。
『日本書紀』では、建御名方神は記載されず、大己貴神(大国主命)は事代主尊の意向を聞いた後、国譲りを受け入れています。
高皇産霊神によって派遣された神は武甕槌神と経津主神となっています。

この出雲国譲りの説話、実際は相続をめぐる揉め事だったのではないでしょうか。
出雲出身の須佐之男尊・大国主命派と南部九州の天照大神派の主導権争いがあったとみます。
最終的には国譲り神話にあるように、天照大神一派が覇権を掌握することになって神武東征へと繋がります。
そこには大きな武力衝突があったということではなく、小競り合い程度だったと考えています。
国譲り神話を大きく掲載したのは、大和政権が出雲を武力で制圧したことを誇示するために、暗に示したかったからだと考えます。

その後、建御名方神はこの争いで敗れ、長野県に至り、諏訪大社に祀られることになります。

出雲系の建御名方神が逃れた信濃国が出雲勢力の支配下だったことが「古事記」に記載されていたということで判明しました。

事代主尊は九州政権を磐余彦尊に譲り、南部九州か出雲で一生を送ったと見られます。
事代主尊を祀る神社伝承はあまり残っていません。

■美保神社(島根県松江市美保関町)
事代主神系えびす社3千余社の総本社で国幣中社
右殿:事代主神、左殿:三穂津姫命
事代主がエビス神と同一とされたのは、別名の伊毘志都幣尊という読みが似ているためです。

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