蒙古襲来(元寇・弘安の役)

蒙古襲来
フビライ・ハン Wikimedia Commons

元寇・弘安の役

弘安四年(1281年)5〜7月、弘安の役が起こります。
弘安の役では、再び来襲した十数万の元軍を日本は容易に上陸を許さず、暴風雨の到来もあって元軍をほぼ全滅させました。

鎌倉幕府の得宗・北条時宗は、文永の役後の建治元年(1275年)、異国警固番役を設置し、鎮西九国を4つに分け、3か月ごとに春:筑紫・肥後、夏:肥前・豊前、秋:豊後・筑後、冬:日向・大隅・薩摩の地頭御家人が防衛にあたることになりました。
更に、石塁が弘安の役で効果的であったことから、御家人による石築地交替修理、石塁の延長工事が行われました。

石築地(元寇防塁)
『蒙古襲来絵詞』に描かれた建設当時の石築地 Wikimedia Commons

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実行は中止になりましたが、鎌倉幕府は高麗へ逆襲、侵攻することを計画していました。
これは死者を多数だしたものの、日本は負けたという意識が無かったことの現れです。
これに対し、モンゴルも負けたという意識はなく、再度侵攻を計画します。

建治元年(1275年)2月、フビライ・ハンは、日本に朝貢あるいは服属させるため、モンゴル人の杜世忠と漢人の何文著等の使節団を派遣しました。
案内人として高麗人の徐賛、ウイグル人の徹都魯丁、果の3名が同行しました。
使節団は九州ではなく、長門国の室津(山口県豊浦町)にやって来ますが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に護送させ、竜ノ口刑場(神奈川県江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首しました。

元のフビライ・ハンは、使節団を日本に送る一方、高麗に対しては日本侵攻のための南宋中心の軍隊を派遣しています。
日本の対応ですが、外交使節を斬首するという儀礼無視の酷いやり方であり、蒙古襲来のきっかけを作ったのは日本である、という批判もあります。
しかし、文永の役が終わったばかりの戦時下の使節来日ということで、スパイといわれても文句は言えない、ともいえます。
日本側も、モンゴル、南宋の状況は、高麗や貿易商人などを通して情報をある程度把握していたと推測されますので、戦時下の対応としては致し方ないと考えられます。

元は、1276年、南宋の都・臨安(杭州市)を陥落させ、南宋の遺臣、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は南下して抵抗を続けます。
1279年、広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅び、中国大陸はモンゴルの支配下に置かれました(崖山の戦い)。

その頃、高麗ではまたしても内紛が起きていました。
朝鮮半島というのは地政学的に近隣にある強国の干渉地帯として、古来から今日に至るまで本当に内紛が絶えない地域であり、そういう意識を前提とした人々の集まりだったのです。
強国の属国として守られていたとはいえ、独立国家としての威厳が高いとは言えない地域です。

高麗では、文永の役で日本と戦った金方慶が、謀反と横領の罪でフビライに誣告され、洪茶丘を将軍とする軍隊に捕らえられます。
金方慶は針金を首に結ばれて引き回され、鞭打ちに処された後、大青島(忠清南道)に島流しにされました。
しかし、フビライ・ハンに対して高麗王の忠烈王が金方慶の無罪を主張し、ようやく許されて帰還を果たします。

フビライ・ハンは、南宋が滅亡するやいなや日本征討のために旧南宋と高麗に、造船を命じます。
それと同時に宋の范文虎の派遣した使節団が対馬に到来しました。
この使節団派遣は、杜世忠ら使節団が斬首されたことを知らないまま、周福、欒忠を主に、日本から留学僧として渡宋していた本暁房霊泉、通訳・陳光らを伴い、再度日本へ派遣するものです。
この使節団への日本側は、いわずもがなの対応でした。
周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、鎌倉に送られることもなく、博多において全員が斬首されました。

弘安三年(1280年)8月、フビライ・ハンは、征東行省を設置して、1281年、忻都、洪茶丘は、モンゴル人、漢人、高麗人による東路軍を編成して高麗の合浦から出発、 范文虎は南宋の降伏兵10万人を編成し江南を出発する、という計画を発表します。
弘安四年(1281年)5月3日、東路軍4万の戦船900艘が合浦を出発しますが、しばらくの間巨済島に停泊します。
江南軍が到着するのを待ったといわれています。
箱崎周辺に集結した日本軍は、夜襲や、小競り合いを行いながら東路軍を抑えていました。

一方、江南軍は10万の兵力で、日本の平戸から五島列島に到達し、壱岐で日本軍と戦います。
対馬・壱岐を撃破した東路軍は博多湾に侵攻し、北九州への上陸を目論みます。
しかし日本側は防御体制を固めていて、博多湾岸に石塁(元寇防塁)を築き対抗、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念しました。
そこに来襲したのが暴風雨です。
7月1日、暴風雨に元の船は転覆、沈没し、数万の兵は海へと消えました。
博多、今津、から鷹島に至るところに元兵の遺体が打ち上げられたといいます。

元軍に大勝した鎌倉幕府は、直ちに九州の御家人に「異国征伐」として高麗出兵を命じます。
『東大寺文書』によると、幕府は少弐か大友を大将軍として、三か国の御家人に高麗征伐を命じたものです。
しかし第二次高麗出兵計画は実行に移されることはありませんでした。
一方、フビライも日本の報復を恐れて、高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍の襲来を警戒しました。

その後も征東行省を廃止したり復活したり、日本への侵攻を諦めずにいました。
しかし、永仁二年(1294年)フビライ・ハンが死亡し、元による日本征服の夢は消滅しました。

元寇における日本勝利の要因

元軍が元寇・文永の役と弘安の役において日本に敗北した要因、日本の勝因はどこにあるのでしょうか?
先ず考えられるのが、戦った相手がモンゴル人・高麗人・漢人(南宋人)の混成部隊だったということです。
戦争で重要な上意下達の迅速性がうまく機能しなかったと見られるのです。
そして混成部隊なので内輪もめが起こっています。
元寇での敗因の一つが、この混成部隊による内輪もめでした。
内輪もめというよりも、南宋人や高麗人が、モンゴル人に奴隷のように使われることに抵抗感があったのではないでしょうか。
貧乏くじをひくのは前線で戦わされる高麗軍、南宋軍であったでしょう。
元軍の戦意が皆同じであったとは考えにくいです。
南宋軍の中には相当数の移住民が含まれていたともいわれます。
日本は南宋人を殺さず、できるだけ捕虜にしたともいわれています。
これに対し、日本は鎌倉幕府の力が強い時代であり、御家人を中心とした統制力も内戦の経験も豊富です。
もちろん、海で囲まれた自然の強力な要塞を持つ日本が、そう簡単に侵略されることはありません。
「神風」を皇国史観のたわいもない話と批判する学者先生もいますが、科学技術の発展していない鎌倉時代、神風が吹いたと信じることを笑うことはできません。
神の御加護があったことを信じていた時代、戦時下に台風が起こることが奇跡的なことだったし、日本の勝因も「神風」といって間違いないでしょう。

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