親鸞と鎌倉仏教

親鸞
安城御影」Wikimedia Commons

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若き親鸞

親鸞は、承安三年(1173年)4月、下級貴族・日野有範の子として京都にて誕生します。
親鸞の母親については不明です。
頼朝が挙兵するのが治承四年(1180年)ですから、その7年前に親鸞が生まれています。
翌年の治承五年(1181年)、天台宗の慈円(慈鎮和尚)のもと得度して比叡山に入り、20年間、29歳まで叡山ですごします。
慈円といえば、『愚管抄』を書いたことでも有名です。
親鸞は、若き時代を天台宗総本山の比叡山ですごしたことになり、良い悪いに関わらず親鸞の思想形成に叡山が影響したことは間違いないでしょう。

親鸞に影響を及ぼした聖徳太子

そしてもう一人親鸞に影響を及ぼしたのが「聖徳太子」です。
下記に親鸞の奥さん・恵信尼が、娘にあたる京都の覚信尼に送った手紙「恵信尼消息」の現代訳があります。
そこには、比叡山を下りてすぐに聖徳太子が夢に出てきて言葉を示してくれた、とその影響を書いています。

聖人は比叡山を下りて六角堂に百日間こもり、 来世の救いを求めて祈っておられたところ、 九十五日目の明け方に、 夢の中に聖徳太子が現れてお言葉をお示しくださいました。 それで、 すぐに六角堂を出て、 来世に救われる教えを求め、 法然上人にお会いになりました。 そこで、 六角堂にこもったように、 また百日間、 雨の降る日も晴れた日も、 どんなに風の強い日もお通いになったのです。 そして、 ただ来世の救いについては、 善人にも悪人にも同じように、 迷いの世界を離れることのできる道を、 ただひとすじに仰せになっていた上人のお言葉をお聞きして、 しっかりと受けとめられました。 ですから、 「法然上人のいらっしゃるところには、 人が何といおうと、 たとえ地獄へ堕ちるに違いないといおうとも、 わたしはこれまで何度も生れ変り死に変りして迷い続けてきた身であるから、 どこへでもついて行きます」 と、 人がいろいろといったときも仰せになっていました。

この文は、 聖人が比叡山で*堂僧をつとめておられたとき、 山を下りて六角堂に百日間こもり、 来世の救いを求めて祈っておられた九十五日目の明け方に、 夢の中に聖徳太子が現れてお示しくださったお言葉です。

恵信尼消息

聖徳太子の親鸞への影響を示すのが「孝養像(きょうようぞう)」です。
孝養像とは、聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気が平癒するよう、祈願している姿を模った小さな仏像です。
鎌倉時代になると孝養像が1000体以上作られます。
今残っている聖徳太子像の7割が孝養像といわれ、全国に広まるきっかけを作ったのが親鸞です。
浄土真宗は、聖徳太子の教えをもとにして全国に広がリます。
太子信仰は各地の風習と混じり合い普及していきました。

法然上人との出会い

上記の「恵信尼消息」には、法然上人の名前があります。
法然は、長承ニ年(1133年)生まれですから、親鸞とは40歳の年齢差があります。
比叡山を下りて法然と出会うのが親鸞29歳の時なので、法然69歳ということになります。

法然は文治二年(1186年)、大原問答と呼ばれる議論を戦わせます。
天台宗の高僧・顕真が法然を大原の勝林院に招きます。
そこで法然は顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと聖浄二門の問答を行います。
文治五年(1189年)には、九条兼実が法然に帰依するなど、貴族社会にも法然の教えが広まりました。

その後、親鸞は法然のもとで学び、徐々に法然に認められるようになります。

肉食妻帯を始めたのは親鸞?

そして、親鸞は結婚し子を儲けます。
親鸞が妻帯した時期はわかっていません。
妻は上記にある「恵信尼消息」でわかるように、恵信尼ですが、初婚なのか再婚なのかは不明です。
妻との間に4男3女(範意・小黒女房・善鸞・明信・有房・高野禅尼・覚信尼)をもうけています。

僧侶の肉食妻帯を始めたのは親鸞の浄土真宗、というのは正確ではないです。
もともと平安時代後期から浄土宗の中でも肉食妻帯は広まっていて、妻帯もして俗人と変わらない生活をする僧侶はいました。
天台宗のように菩薩戒のみを守る宗派の場合、肉食妻帯は菩薩戒の上では自律であって他より処罰される他律対象ではないと解釈できたのです。
鎌倉仏教は、天台宗から派生した宗派が多いので、菩薩戒の上では他より処罰される他律対象ではなくなり、親鸞に限らず妻帯して俗人と変わらない生活をする僧侶は多かったようです。

親鸞は、熱心な学習態度が法然に認められ、「選択集」の書写を許されるほどになります。
それほど法然の親鸞への信頼が厚かったしるしです。
しかし、承元元年(1207年)、承元の法難と呼ばれる事件が起きます。
承元の法難とは、後鳥羽上皇によって法然の弟子4人が上皇の女官と密通し出家したため、死罪とされ、関連した法然は土佐に、親鸞は越後に流罪とされた事件です。
この事件により、親鸞と法然は二度と再会することはなくなりました。
法然は、建暦二年(1212年)に亡くなっています。

晩年の親鸞と教行信証

親鸞は、流罪地・直江津での生活を終え、常陸国笠間郡稲田郷に辿り着き、この地を拠点に精力的な布教活動を行います。
親鸞は稲田郷の「稲田の草庵」において『教行信証』を執筆したとされています。
『教行信証』は、正しくは『顕浄土真実教行証文類』という題名の、全6巻からなる浄土真宗の根本聖典です。

嘉禎元年(1235年)、鎌倉幕府は専修念仏の禁止を命じます。
これがきっかけとなったのか、親鸞は東国から京都に移住します。

親鸞が京都に移住して東国の教団では、内部争いが勃発します。
建長五年(1253年)頃、親鸞の息子・善鸞と善鸞の息子・如信を正統な布教のために東国へ派遣します。
しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させます。
善鸞が鎌倉幕府に訴え出て教団を崩壊させようとしていることを知った親鸞は驚愕、義絶状を書いて善鸞と絶縁します。

弘長二年(1262年)11月28日、親鸞は息子・有房、娘・覚信尼、門弟・顕智等に看取られながら、90歳で亡くなりました。
親鸞の死後、1300年頃に『歎異抄』が編集、流布されます。
その名の通り、親鸞の真信とは相違する異義・異端を嘆いたもので、唯円の作といわれています。

その後、『南無阿弥陀仏』を唱えれば極楽浄土に往生できるという思想は、庶民を中心に全国に広がり、現代の「浄土真宗」「浄土宗」という宗派へと発展していきました。

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