紫式部と源氏物語

紫式部と源氏物語
紫式部 Wikipedia

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紫式部

『源氏物語』『紫式部日記』を作ったとされる紫式部は、天禄元年(970年)~天元元年(978年)頃に生まれ、寛仁三年(1019年)までは生存していたとみられる女流作家・歌人であり、女官(女房)です。
紫式部は正式な姓名ではなくペンネームです。

紫式部の父親は藤原為時、母親は藤原為信女といわれています。
兄弟(兄か弟かは不明)に藤原惟規がいて、姉がいたこともわかっています。

幼少の頃から賢かったという記録が残っており、漢文を読みこなしたようです。
『源氏物語』『紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集『紫式部集』が伝わっています。

父親の藤原為時に伴い越前に移住し、やがて帰京すると山城守・藤原宣孝と結婚し、娘の藤原賢子が生まれます。
しかし、この結婚生活は長く続かず、長保三年(1001年)、宣孝と死別しました。
この夫との別れが転機となり宮仕えが始まり、寛弘二年(1005年)頃、一条天皇の中宮で道長の娘・藤原彰子に仕えることになります。

藤原為時

藤原為時は、紫式部の父親です。
天暦三年(949年)頃に生まれ、長元二年(1029年)頃に死没しています。

為時は優れた学者・歌人・漢詩人であり、花山天皇が皇太子の時に学問を教えたことがありました。
優秀な学者でしたが、社交ベタだったこともあり、出世コースからは外れていたようです。

長徳二年(996年)、淡路守に任ぜられたものの、そのすぐ後に藤原道長が、越前守に任ぜられた源国盛を停めて、藤原為時を越前守に変更したといいます。

藤原惟規

藤原惟規は、紫式部の兄または弟で、天延二年(974年)頃に生まれています。
父親は、藤原為時です。
父・為時とともに越後に赴任しますが、寛弘八年(1011年)、赴任先で病没しています。

藤原道長

『源氏物語』光源氏のモデルとなったと言われるのが、藤原道長。

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康保三年(966年)誕生、万寿四年12月(1028年)に没しています。
望月の和歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」で有名です。
藤原氏全盛時代を築き上げた人物です。

藤原兼家

藤原兼家は、藤原道長、道隆のお父さんです。
延長七年(929年)に生まれ、永祚二年7月(990年)に没しています。

兼家の正室が藤原時姫です。

藤原道隆

藤原道隆は、摂政関白・太政大臣。
天暦七年(953年)に生まれ、長徳元年4月(995年)に没しています。
藤原道長のお兄さんで藤原兼家の長男です。

花山天皇退位事件(寛和の変)で父・兼家の意を受けて宮中で活動しました。
兼家が没すると後を継いで関白となります。
その後まもなく病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にしようと画策しましたが、天皇からは許されず、亡くなりました。

清少納言

清少納言は、清原元輔の娘で、康保三年(966年)頃に生まれ、万寿二年(1025年)頃に没しています。
平安時代中期の作家、歌人です。
随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つと言われています。
清少納言の清が姓で少納言が役職名とされていて、清・少納言と発音するのが一般的ですが、ペンネームなのか女房名なのか由来は不明です。

「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」で始まる『枕草子』は、『源氏物語』と並ぶ中世文学の双璧として、後世の歌壇界に大きな影響を与えたとされます。
『枕草子』は、鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』と並んで日本三大随筆と言われています。

天元四年(981年)頃、清少納言は陸奥守・橘則光と結婚し、翌年に則長を生みます。
しかし、橘則光とは離婚し、その後、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけました。

そして正暦四年(993年)、一条天皇の妃である中宮定子に仕えるため、宮中に出仕しました。
当時貴重だった紙を定子に貰ったことがきっかけとなり枕草子執筆につながりました。

源氏物語

源氏物語が出来た時代背景:安和の変

『源氏物語』が世に出た平安中期、11世紀前半とはどのような時代であったのでしょうか。

まずは、物語のタイトルにある源氏はどのような状況であったのでしょうか。
ポイントは、源氏物語が書かれる30年前の安和の変にあります。
安和の変は、安和二年(969年)、源満仲らの謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた事変です。
安和の変以後、摂政・関白が置かれることになります。
左馬助 源満仲と前武蔵介 藤原善時の二人が、中務少輔 橘繁延と左兵衛大尉 源連の謀反を密告したのです。
この知らせを受けて、右大臣師尹等の公卿はただちに参内し、宮中の諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧侶である蓮茂や、検非違使 源満季、前相模介 藤原千晴とその子久頼などを捕らえて訊問に入りました。
さらに、関所を固める固関使も出発するなど大騒動に発展します。

結局、左大臣源高明を太宰権帥に左遷することが決定します。
まさに、菅原道真の左遷と同じことが行われたのです。
最終的には、源高明は左大臣の職を解任され、右大臣だった藤原師尹が左大臣につき、右大臣には大納言の藤原在衡が昇進しました。
密告した源満仲と藤原善時の二人は昇進し、 橘繁延が土佐に藤原千晴を隠岐に、僧侶蓮茂は佐渡に流罪となりました。
菅原道真の左遷も安和の変もどちらも藤原氏側が仕掛けた事変です。
菅原道真も源高明も冤罪です。
藤原の私利私欲のために敵は葬り去られたのです。

そして、この安和の変を最後に藤原氏の他氏排除の企みは終わりとなります。
こうして、藤原氏栄華の時代が始まりました。

藤原道長栄華の時代

長徳元年(995年)、はしかと思われる疫病が流行り、道隆、道兼の兄弟が死亡します。
この時、道長と道隆の息子、伊周が関白候補でした。
そこに意見を述べたのが道長の姉で天皇の生母であった詮子でした。
これが功を奏して藤原道長が右大臣に昇進しました。

その後、花山天皇と伊周との間で恋の揉め事があり、花山天皇に弓を射る事件が発生します。(長徳の変)
さらに伊周が病の詮子を呪詛したという噂が立ったり、法琳寺から伊周が大元帥法という秘法をおこなったという密告がありました。
これらの事件により、道長は、伊周を大宰権帥に左遷すると発表、固関使派遣が決まります。
中宮・定子は、伊周、隆家に左遷の命が出た後も二条宮でかくまい髪を切って尼となりますが、後に一条天皇の命で宮中に戻ります。
一連の騒動で藤原伊周、隆家は失脚し、藤原道長の天下がやってきたのでした。
政敵の伊周は結局、太宰府に左遷されますが、短期間で京都に戻ってきています。
この辺りが、菅原道真の左遷や安和の変とは趣が違うところで、穏便に事が運ばれたことがわかります。
これだけを見ても、他の為政者と比較して、藤原道長は優れた藤氏長者であり、興隆をもたらしたのも理解できるのです。
同じ藤原一族の揉め事であったことも穏便に済ませた理由かもしれません。

作者は紫式部なのか?

『源氏物語』の原本は残っておらず、作者名が記載された『源氏物語』も残っていません。
そして、現在は当たり前のように『源氏物語』というタイトルが独り歩きしていますが、正式なタイトルも定かではありません。
さらに、平安時代に作成されたと判別できる写本版は現在も見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたとみられる写本も非常に少数しかありません。

結果から考えると、『源氏物語』は複数名で非公式に自由に書かれたため名前もタイトルも記すことができず、そのため元々原本というものも存在していない、と推測できるのではないでしょうか。

そして、時の権力者である道長をはじめとした貴族界隈を題材にしたので、作者は名を隠し、ペンネーム「紫式部」に仮託したということでしょう。

一部別作者説

現在は、紫式部が単独で著したというのが通説とされていますが、多くの異説が残っています。

『宇治大納言物語』には、紫式部の父・藤原為時が大筋を書き、子の紫式部が細かいところを書いたとする伝承が残っています。

一条兼良や一条冬良の著作には、宇治十帖(橋姫から夢浮橋)が紫式部の娘・大弐三位の作であるとする伝承が記されています。

近代になると、与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとしています。
和辻哲郎は「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」ではなく、「ひとつの流派を想定するべきではないか」としています。

その他、光源氏のモデルと言われる源高明本人が著者だという説もあります。

紫式部関連の年表

  • 康保三年(966年):藤原道長誕生
  • 安和二年(969年):源満仲らの謀反の密告により左大臣源高明が失脚(安和の変)藤原氏権勢のきっかけ
  • 天禄元年(970年):紫式部誕生(~978年頃)
  • 天禄三年(972年):藤原兼通が関白になる
  • 永観二年(984年):円融天皇譲位、花山天皇が即位
  • 寛和二年(986年):花山天皇が出家、藤原兼家が摂政となる
  • 正暦元年(990年):兼家が死去、藤原道隆が摂政となる
  • 正暦四年(993年):摂政道隆が関白となる
  • 長徳元年(995年):道隆、道兼が没し、道長が右大臣となる
  • 長徳二年(996年):藤原伊周と隆家が花山法皇を射る(長徳の変)
  • 長保元年(999年):道長の長女・藤原彰子を女御とする
  • 長保二年(1000年):中宮の藤原定子を皇后に、女御の藤原彰子を中宮にする
  • 長保三年(1001年):紫式部が宣孝と死別
  • 寛弘二年(1005年):安倍晴明が亡くなる この頃、紫式部が一条天皇の中宮で道長の娘・藤原彰子に仕える
  • 寛弘四年(1007年):この頃、『拾遺和歌集』『和泉式部日記』が成立する
  • 寛弘五年(1008年):この頃、紫式部が『源氏物語』を著す
  • 寛弘八年(1011年):一条天皇が崩御、冷泉上皇が崩御
  • 長和元年(1012年):道長の娘・藤原妍子が中宮になる
  • 長和三年(1014年):三条天皇の片目、片耳が不自由となり悪化する
  • 長和四年(1015年):道長が三条天皇に譲位を迫る
  • 長和五年(1016年):三条天皇が譲位し、後一条天皇が即位、道長が摂政となる
  • 寛仁元年(1017年):三条法皇が逝去し、道長が太政大臣となる
  • 寛仁二年(1018年):藤原威子が中宮となり、道長が望月の和歌を詠む
  • 寛仁三年(1019年):道長が病気のため出家、刀伊の入寇、摂政頼通が関白となる。紫式部の生存の記録が途切れる
  • 万寿四年(1027年):道長が死没
  • 長元二年(1029年):この頃、紫式部の父親・藤原為時が死没

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