仁徳天皇 大鷦鷯天皇

仁徳天皇
仁徳天皇 Wikipediaより引用(加工済)

仁徳天皇とは

『日本書紀』では
仁徳天皇とは、大鷦鷯天皇と言われ、父・応神天皇と母・仲姫命の第四子です。
五百城入彦皇子の孫です。
難波に高津宮を造られました。
太歳癸酉に即位します。
皇后、葛城磐之媛は、石之日売命といわれ葛城襲津彦の女です。
葛城磐之媛は、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)、住吉仲皇子(墨江之中津王)、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)を生まれました。
またの妃、日向髪長媛は、大草香皇子(大日下王・波多毘能大郎子)と草香幡梭姫皇女(橘姫皇女・若日下部命、雄略天皇の皇后)を生まれました。

『古事記』によると
仁徳天皇からは、上つ巻、中つ巻、下つ巻の下つ巻に変わります。
仁徳天皇は、大雀命と言われ、難波の高津宮で天下を治めました。
葛城の曾都毘古の娘、大后の石之日売命を娶って生んだ御子は、伊那本和気命(履中天皇)、墨江之中津王、水歯別命(反正天皇)、男浅津間若子宿禰命(允恭天皇)です。

末子相続の終焉

大王家では、男女の区別なく末子が相続するのが、古来からのしきたりでした。
応神天皇の皇子、大山守、大鷦鷯、菟道稚郎子の3名が後継候補です。
通常なら末子の菟道稚郎子が天皇の後継ぎになります。
応神天皇は、菟道稚郎子に渡来人・王仁博士を家庭教師につけて、帝王教育を行いました。
王仁博士は千字文、論語など用いて中国式の長功の序を教えたために、菟道稚郎子は兄が継ぐべきとして皇位につかず、大鷦鷯尊も末子相続を主張して皇位につくことはありませんでした。
この譲り合いのため、3年間天皇に空位が生じたのです。
さらに、菟道稚郎子は「長生きをして天下を煩わすのは忍びない」といって自殺してしまいます。
『古事記』では自殺ではなく、若くに亡くなったという記述です。
どうも、自殺では無さそうです。
末子相続が途切れたことを、仁徳天皇に問題なく、菟道稚郎子自殺のせいにしたかった、のかもしれません。
聖帝であった仁徳天皇を美化するために、『日本書紀』編者が創作した可能性もあります。
また、逆の兄弟関係として、仁徳天皇が弟、菟道稚郎子が兄であったことも仮説の一つとして考えられます。
兄が天皇になるべきといいながら、立皇子したときに、なぜ兄の大山守を殺害したのかが謎です。
仁徳天皇が二人を殺害したのではないかという説があるようです。

倭の五王 讃と仁徳天皇

倭の五王の過去記事はこちら①

倭の五王の過去記事はこちら②

倭の五王、通説では下記の歴代天皇に比定されています。

  • 讃=仁徳天皇
  • 珍=反正天皇
  • 済=允恭天皇
  • 興=安康天皇
  • 武=雄略天皇

興=安康天皇と武=雄略天皇は、ほぼ間違いないと考えられます。
即位紀年的にも『日本書紀』と合致します。
済=允恭天皇も系図を見る限り、合っていそうです。
讃=仁徳天皇と珍=反正天皇については、通説でもいろいろな仮説があるように、不明というしかありません。

仁徳天皇については『日本書紀』の崩御が110歳となっていたり、大仙陵古墳も仁徳天皇陵で確定しているわけではないなど、不明点が多いです。

『日本書紀』を見ると、仁徳天皇と兄弟には、菟道稚郎子命と大山守命がいます。
大山守命は菟道稚郎子命の兄で、仁徳天皇の兄です。
珍の候補ですが、大山守命は皇太子になっていないので、除外できるとして、菟道稚郎子は皇太子になっています。
また、播磨国風土記に「宇治天皇」と書かれていて、一時期、天皇として即位していた可能性があります。
菟道稚郎子は、讃の候補になると考えられます。

仁徳天皇と菟道稚郎子の事実関係をまとめると、

  • 菟道稚郎子は宇治天皇と呼ばれた
  • 『播磨国風土記』に宇治天皇の記載あり
  • 『日本書紀』に皇位を譲り合う記載あり
  • 菟道稚郎子が仁徳天皇に殺害されたという説もあり
  • 兄弟関係が合致しない
  • 兄弟逆転の証拠がない

民の竈の煙

仁徳天皇が「聖帝」と呼ばれた逸話として有名なのが、民の竈の煙です。

『日本書紀』によると
天皇は、こう言います。
「人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。
昔の聖王の時代、君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。
いま自分が政治について3年たつが、たたえる声も起こらず、炊煙はまばらである。
これは五穀が実らず、百姓が窮乏しているためである」

詔して、「今後三年間すべて課税をやめ、人民の苦しみを和らげよう」といわれました。
宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺かず、風雨が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程でした。

3年後、天皇が高殿にのぼって見ると、人家の煙は盛んに上っていた。
諸国のものが奉請し、「課役が免除されて3年になります。宮殿はこわれ、倉は空になりました。人民は豊かになりました。こんなときに税をお払いして宮室を修理しなかったら天の罰を被るでしょう」
けれども、まだ税を免除しませんでした。

6年後、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。
人民たちは促されなくても、老を助け、幼きものをつれて、材を運び土籠を背負いました。
幾何も経ずに宮室は整ったので、今に至るまで聖帝と崇められるのです。

3世紀~7世紀は寒冷期で、4~5世紀に当たる仁徳天皇の時代、一般国民は窮乏していたようです。
したがって、貧困層の増大により貧富の差が拡大することで、大規模前方後円墳の代表である仁徳天皇陵などの大規模事業が、それらを大量に動員できることで可能だったのでしょう。

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